『シン・ゴジラ』 「我思う」人々は近しい仲間しか見分けないはずだが

座り心地で選ぶならば座標はデカルト

座り心地で選ぶならば座標はデカルト座標ですね

群生生物と対峙するという難しさ

『シン・ゴジラ』(庵野秀明・監督)という映画を観た。

怪獣が大暴れしてトーキョーを襲う、さあどうやって応戦する?という映画らしいと聞いたが、おおむねその通りであった。

突然、謎の新生物「ゴジラ」が現れ、リーダーのようでもあり、群知能の伝達パイプのようでもある、無個性の個性を体現したような主人公が、知恵を絞り、仲間たちの助けを得て立ち向かうのである。

が、これが涙無くしては観られない作品だった。

私は地球人類の虚構文化が好きだが、ほほう、面白いなと感心はしても、激しい感情移入はしたくてもできないほうである。

だが、この映画はかなり高密度の感情移入をして観てしまった。

もちろんゴジラに、だ。

どこにそれほど引きつけられたかといえば、やはりゴジラが同種の仲間を持たず、単独で進化する生物であるという設定かと思われる。

私は地球猫を好み、猫に似せた姿をしているが、宇宙からやってきた。
「どこの星から来たのですか?」とよく聞かれるが、故郷の星はない。星間空間で偶然に発生したのであって、ゆえに同種の仲間というものが、全宇宙にひとりたりともいない。同じような境遇の者と、虚構とはいえ地球で出会ったことに虚をつかれ、気づけばゴジラを応援しながら観ていた。

ゴジラが有翼に進化して宇宙へ悠々と飛び去る終幕を期待した。が、果たしてそうはならなかった。

ゴジラは地球生まれらしいが、他の生物に依存せずエネルギーを確保可能、つまり「殺さなくても生きられる」点で地球生物として極めて特異だ。ただ地球の上を移動していただけなのだが、なにぶん巨大すぎたがために、あの手この手の攻撃を受ける。単体ではゴジラとは比較にならぬほど弱い生物に。しかしこの生物の集合知がなかなかどうして侮れず、ゴジラはピンチを迎える。

あなたも新生物

地球人類ならば主人公の気持ちになってゴジラを退治できるか手に汗を握って見るか、ゴジラの大規模な破壊行為に束の間の爽快感を得たりするものかもしれないが、人間の皆さん、少し心の中でシミュレートしてみて欲しい。

なぜあなたは自分自身を人間だと思っているのか?

仲間が周りに大勢いて、それらと同じような姿をしているから?

それとも「両親から生まれたから」か?
それは確かなことなのか?あなたは本当に両親から生まれた人間と同一の個体か?

現代地球において、生物(またはそれと思われるもの)がある種に属するか否かは、遺伝子を根拠にするのが一般的だ。地球生物ならばDNAを持っており、人間ならば人間のDNA配列を持っている。

では、DNAを解析してみた結果、あなたのそれが人間のものではなかったら、またはDNAなんかどこにもなかったらどうする?

今日からあなたは人間そっくりの謎の新生物(または非生物)だ。周囲と「同じ人間である」ことを根拠にした安心感とも、人間界の前例から自分の未来を推測することとも、今日限りお別れだ。

「あと**年くらいは生きられるだろう、人間は普通そうだから」「空を飛ぶのは無理だ、人間だから」などはもう意味がない。なぜなら人間じゃないからだ。一個の意識体として、自分にどのような能力があり限界があるのかを見極め、自分とはまったく違う生命体の群れの中でどうにか生きるか、新天地を求めるしかない。

そんな時、あなたは突然、巨大化する。歩くだけで家屋を壊し人を殺傷するので当然人間は攻撃してくる。しかも、あなたが昨日まで人間そっくりの姿をしていたが、実は人間じゃないということはすっかりばれている。

そういう映画だと思って観てみるのはどうだろうか。

私はこんな境遇に慣れていて気に入ってもいるが、それでも孤独であることに変りはない。
ゴジラも孤独なのだろうか。それとも孤独という概念はないのか。
本当のところはわからないが、映画の中盤、ゴジラが米国の攻撃を受けるところなど、ゴジラの意識にせよ無意識にせよ「孤独」が伝わってくるような名シーンだった。あれが泣かずにおられようか。あなたが地球人類サイズの涙が出るタイプの生物であればハンカチが5枚くらいは必要だ。ゴジラ級のサイズならば何枚だろう、面積で言ってニッポンの富士箱根国立公園くらいは必要ではないか。

いや、生物じゃないかもしれない

ここではたと気づく。

この映画を作ったのは、確認はしていないがほぼ地球人類だろう。
しかも映画とは一人や二人でできるものではない。大勢の人で作り上げるものと聞く。つまりは群生生物としての集合知の結晶のような文化である。

にも関わらず、敵役とはいえ「個」生物であるゴジラの孤独をあのように見事に描いているのはどういうわけだ。

実は制作者が大勢の人間と見せかけて一個の宇宙人である可能性も捨てきれないが、そうではないだろう。これは地球人類の英知、虚構文化の粋というべきなのだ。

そもそも地球人類というものは、「生物」「生命」というものを、非常に狭く定義している。時代に応じて今後変化もしようが、「細胞を持ち、膜構造で自他を区別する」「エネルギー代謝機構を持つ」「自己複製する」「恒常性を持つ」「外部の刺激に反応する」などが一般に生物の定義とされ、たとえばどう考えても生きているだろうと思われても「ウイルス」は生物ではないとする見方もある(細胞を持たないから)。

もはやこれらの定義は不完全という意見も多いというが、ひとまずこの定義に従えば、ゴジラは世代交代によらず単独で姿を変えており「自己複製しない」可能性、つまり生物ですらない可能性もある。

ゴジラが生物か否かはどっちでもいい、むしろこの定義が客観的な分類のためというより「仲間を見分ける」機能しか持っていないところに注意したい。

「生物」とは、自分と同一ではないがごく近しいものだけを同じ「生物」として認識する意識体により自己定義されるモノの集合である

などと言ってもいいのではないか。

だが、前回の「ポーが猫になった」式に言えば、あの映画を作った人たちは「ゴジラになった」のだ。そう言うに足る場面がいくつもあった。

自分とはまったく違う理解不能な存在をあのように描くことができるとは。群生生物の集合知を見直した次第である。

最後に、『シン・ゴジラ』のホーム・ページというものを見てみたところ、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」という文言が大きく書いてあった。いよいよ考えさせられる。ゴジラに「なる」映画をこのように表現するとは、つまりは、自己複製する群生生物でありながら、(孤独であっても、永遠の敵役であっても)「虚構になりたい」と密かに欲する地球人類が案外多いということではないかと、私には思える。実に興味深い。今後の研究課題としたい。

さて、「我思うゆえに我あり」という名言を残したデカルトという人は、多くの肖像画が真顔であるのに対してうっすらと笑顔である点で興味が尽きない。実際に常時笑っていたのか、笑顔の姿でぜひ残したいと画家が思うような人物だったのか、それとも笑顔を描いてくれと自ら注文したのか。これも今後の研究課題である。

デカルト

どうですかな(にやり)


2002号室のシャルル大熊さんも、映画「シン・ゴジラ」を観たらしくレビューを書いている。ふむふむ地球の人の言うことは一味違うぞ……

旅からひと月以上経ってしまった。記憶が薄れないうちに書く。第3新東京市で「シン・ゴジラ」を観た。わたしはゴジラにさして思い入れはない。子どものころ初めて劇場で見たゴジラ映画が「ゴジラ対ヘドラ」だったからだ。ヘドラだよ。ヘドロから生まれた怪獣

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