【 人物デッサンの20分 】
前回の「魔談」を読んでくれた友人から「人物デッサンの20分というのは、なにか理由があるのか」と質問が来た。この機会に説明しておこうと思う。
たとえば(プロのモデルさんにお願いして)ヌードデッサンをする際、通常は「1ポーズ20分・合計4ポーズ・拘束時間2時間」という依頼の仕方をする。するとこちらが指定した日時・場所にモデルさん(女性)がやってくる。さすがにモデルさんは行動が機敏だ。カーテンで仕切られた「控えの間」でパパッと服を脱ぎ、「お願いします」と声をかけると全裸で出てくる。部屋の真ん中に進み、そこに敷かれた毛布の上に立つ。
「ポーズはどうします?」とモデルさんが聞いてくる。
「おまかせしていいですか?」
「わかりました」
するとモデルさんは自分でポーズを決めてくれる。
これはじつはモデルさんにとっても、そのやり方が一番いいのだそうだ。いわゆる「立ちポーズ」、つまり立ったままじっとしているのが一番疲れると聞いたことがある。そこでモデルさんが自分でポーズを決める場合は、一番最初に「立ちポーズ」をする。2番目は椅子を持ってきて「着席ポーズ」。これが一番楽だという。疲労が回復したところで、3番目は両足をそろえて床に座ったポーズ。最後の4番目は床に寝転んだポーズ。
このようにして疲労感を調整しながら自分でポーズを決めるのが、モデルさんにとって一番いいらしい。さもありなん。
その反対は、例えば年配の画家集団から依頼された場合。「ああしろこうしろ」と(数人がかりの)注文がうるさくて困ってしまう時があるそうだ。そんな時は遠慮なく「お望みのポーズは疲労が激しいポーズなので、20分3ポーズにしていただきます」と言うそうだ。すると大抵の場合、ジイサン画家たちは引き下がる(笑)そうだ。
さていよいよデッサンの開始。私はストップウォッチのスイッチを押して「開始!」と声をかける。その部屋に集合した生徒たちは一斉にデッサンを始める。このようにして「1ポーズ20分・10分間休憩・1ポーズ20分……」という進行でポーズを次々に変えていき、合計4ポーズを描く。モデルさんの拘束時間は合計で2時間である。

専門学校などで、生徒の着衣デッサンをする場合も同様だ。
(1)教室の机と椅子はみな壁際に移動させる。
(2)教室の真ん中に、少し距離を置いて、椅子を2脚置く。
(モデルの生徒が違う方向を向くようにして椅子を置く)
(3)モデルの生徒2名を(名簿の順に)指名して椅子に座らせる。
(4)デッサンする生徒たちは、自分で好きなように教室内を移動してモデルを描く。
(5)20分が経過したら10分間休憩をとり、モデルを(2名とも)変更。
このようにしてどんどん描く。
なぜ20分なのか。以下のような理由を聞いたことがある。
(1)モデルに対して「過剰な(肉体的)負担をかけない時間」が20分と言われている。
(2)描く方にとっても無理なく集中が持続できる時間は20分であり、その後は一気にだれてくるという。
【 ピエールの行動 】
さて本題。
貞子はふわりとした軽そうなキルティングのジャケットを着ていた。それはくすんだ濃い紫色で、60歳前後(だろうと思う)の彼女によく似合っていた。私は目の前の人物をデッサンする際に、集中して観察することはもちろんだが、なにか聞きたくなったことがある場合は制作中も遠慮なく聞くことにしている。本音は無言でデッサンに集中したいのだが、その瞬間に聞きたくなったことを先延ばしにするのも、なんとなく嫌だからだ。
この時もそうだった。
「じつにシックな紫色ですね。よくお似合いです。もしかして日本製ですか?」
「あら」貞子は感心したようだった。「日本製だとよくわかったね」
「なんとなく、です。こっちの人はムラサキを嫌うと聞いたことがあります」
「そうね。このコートは浅草で買ったのだけど、こっちじゃまずありえない色かもね」
「浅草!……また渋いところで買いましたね」
「古着屋さんで見つけたの」
「ああなるほど。日本人はムラサキに抵抗はない……どころか高貴な色ですよね」
「あなたのアーミージャケットも古着なの?」
「そうです。京都の寺町京極にそういうのを売ってる有名な店があります」
「京都……いいわね。後で京都の話を聞かせて」
「いいですよ」
この時は制作中だったし、雑談を発展させる余裕などなかったので、私は自分が京都出身だと言わなかった。彼女も私がフッと会話を止めた様子をちゃんと察知していた。ピエールがまたなにかごちゃごちゃと貞子に言い始めたのだが、彼女はピエールに微笑を向けただけで黙っていた。その対応もじつに素敵だと思った。
それにしてもこの男ときたら、ホントに落ち着きのないヤツだ。私の肩に自分の肩を押しつけるようにしてデッサンを覗きこんでいるかと思ったら、ふっと体を離して別の方向を見ていたりする。そうかと思ったらパッと席を立ってどこかへ行ってしまった。「二度と戻ってくるな」と思っていたら、しばらくして戻ってきた。またひとり連れてきやがった。なんてヤツだ。今度は若い女性だった。大学生ぐらいだろうか。
ピエールはゴチャゴチャと(例によって)早口で女性になにかを説明していたが、女性の方は至ってもの静かだった。私はスケッチブックから目を離すわけにはいかないのでチラッと彼女を見ただけだったが、聞こえてくる彼女の声は「ウイ」(そうね)「ダコール」(なるほど)などの相槌程度だった。その女性の視線は(なんとなくの察知だが)じっと私の手元に注がれているような気配を感じた。
【 つづく 】

