そのころ――

文殊菩薩は、正直なところ少し疲れていた。
一週間前。
コーサラ国の祇園精舎での説法にシャカムニ・ブッダから呼び出されたのが、
ことの始まりだった。
説法は見事なものだった。
だが、その内容があまりにも高度だったのである。
(いやあ……あれは凄かったな)
文殊は、礼拝を続ける聴衆を眺めながら思い出していた。
(シャカムニ・ブッダの説法は、今まで私が導いてきたブッダたちの中でも一番かもしれない)
(ただし――内容が菩薩向けすぎた)
文殊は小さくため息をついた。
内容があまりにも菩薩向けだったため、
シャーリプトラたち声聞の弟子には、まったく理解できなかった。
その結果どうなったか。
普賢菩薩が補足説明を担当し、
文殊は三日間ぶっ続けの弁論大会を仕切らされるハメになったのである。
しかも最後には総括まで任された。
(あれはさすがに疲れた……)
その総括の中で、文殊はつい熱く語ってしまった。
――教えは、実際に身体を動かして実践してこそ意味がある。
その結果。
巡回説法の旅に出ることになってしまったのである。
(ああいったことを勢いで言うものではないな……)
とはいえ、威厳を損なうわけにもいかない。
文殊は顔に疲れを出さないよう注意しながら、
次々と続く礼拝を受けていた。
目の前には、南インドきっての大都市ダニヤーカラの人々が並んでいる。
(さすがは大都市だ)
文殊は感心した。
(理事長を筆頭に、大富豪ばかりではないか)
衣装も装飾品も、見事なものだ。
(まるで神々のようだな)
やがて全員が席についた。
そのときだった。
(む?)

会場の端に、ひとりの少年が座っている。
文殊は思わず目を止めた。
立派な身なりをしている。
相当な家柄の子どもだろう。
文殊はその少年を数秒見つめた。
それだけで十分だった。
神通力によって、文殊はたちどころに見抜いた。
(ほう)
この街の有力商人の跡取り。
名は――善財。
(善財、というのか)
文殊は少し興味を持った。
(どうしてそんな名前がついたのだろう?)
その瞬間、
文殊の意識の中に、一つの光景が広がった。
善財が、まだ母の胎内に入ったばかりのころ、
家の周囲に、七種類の宝の芽が生え出した。
そして善財が生まれた瞬間、
その芽は地面を破って姿を現し、
まばゆい光を放った。
その光を浴びた家や蔵には、
宝石や香料、食物があふれ出した。
まるで財宝の泉のように。
その奇跡にちなんで、
この少年は「善財」と名づけられたのだ。
(なるほど)
文殊は静かにうなずいた。
そしてさらに、もう一つのことを見抜いた。
この少年には――
人並外れた素直さと、
驚くほどの熱心さがある。
膨大な教えを受け入れる器がある。
文殊の目が輝いた。
(おお……)
(これは稀に見る大器だ)
(この子は伸びる!)
文殊は小さくうなずいた。
そして視線を会場全体へと戻し、
ゆっくりと口を開いた。
善財は思わず身を乗り出した。
文殊は、
「人はなぜ苦しむのか」
「どうすれば智慧に目覚めるのか」
という問いから語り始めた。
会場の空気が、静かに引き締まる。
一通り語り終わると質疑応答に入り、
聴衆の問いに一つ一つ丁寧に答えていった。
難しいところは、できるだけ噛み砕く。
身振り手振りも交えながら説明する。
気がつけば、会場の空気は大きく動いていた。
人々は深くうなずき、
時には感動に震えている。
文殊は、聴衆の反応に手ごたえを感じながら、
説法を続けるのだった。

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