【第二十一話】
「……今の、聞きました?」
梅木浩子が、魂の抜けた声で、誰にともなく問いかけた。
「はい」
山本善子が、憮然としながら、低い声で答える。
「山本さんは、どうしてここに?」
小田原泉が、尋ねる。
「来年から、桜の宮町が主催するスポーツ教室で、ヨガを教えることになって。その打ち合わせで来てたんです」
「そうだったんですか」
「ちょうど打ち合わせが終わって、エレベーターに乗ろうとしたら、お二人が歩いていくのが見えて、後を追いかけたんです」
「ああ……」
「そしたらまさか……」
「聞こえました? 松野さんたちの」
「……はい。廊下からだったので、聞き取りづらいところもありましたが……息子に、思い知らせてやる、みたいなところは……」
小田原泉は、深いため息を吐き、うなだれた。
「とりあえず、私たちは車に戻りましょう。竹林さんも待ってますし」
「……そうですね」
梅木浩子が、力なく答える。
「山本さん、車で来ました? 一人で帰れます?」
「……大丈夫です。帰れます」
そう答える山本善子の手が小刻みに震えているのを、小田原泉は、見逃さなかった。
「……私、山本さんと帰ります。山本さん、車に乗せてもらってもいいですか? 梅木さんは竹林さんたちと一緒に、役場に戻ってください」
「……わかりました。あ、でもこれ、どうしよう」
梅木浩子は、手にした被害届に視線を落とした。
「後で改めてお送りしましょう。今日は帰るんです」
小田原泉は、力強くそう言って、二人の背中にトンと手をやり、玄関へと促した。
「もし途中であの人たちに会ったら、〝トイレに寄ったら迷った〟ということにしておきましょう。くれぐれも、私たちが聞いていたことを悟られないように」
二人は頷いた。その姿を見て、小田原泉は二人の後ろから続けた。
「さっき聞いたことについては、後日改めて整理しましょう。それまでこのことは、決して口外しないように。竹林さんにも」
梅木浩子はちょっと振り返って戸惑う顔を見せたが、「そうね」と言った。
「山本さんも、ご主人にも話さないように。……できます?」
山本善子は、力なく頷いた。エレベーターの扉が開いて、三人はほどなく外に出た。
「やっと来た。さあ、帰ろう」
二人を待ち構えていた竹林は、車の後部座席に座り、開いた窓から声をかけた。
「町長、すみません。私、同じマンションの知り合いに偶然お会いしたので、送ってもらうことにしました。ここで失礼します」
「ああ、そう。わかりました。じゃ小田原さん、また。梅木さん、早く乗って。鈴木さん、車、出して」
梅木たちの乗った公用車を見送った後、小田原泉は、山本善子の車でマンションまで帰った。
二階に住んでいる小田原泉は、いつもは健康のために階段を利用するのだが、今日は山本善子と一緒にエレベーターを待っていた。
交わすことのない言葉。沈黙の時間。
小田原泉は、エレベーターの階数表示がゆっくり下がってくるのを見ながら、思わず、
「……ちょっとうち、寄っていきませんか? もしお時間あるのなら」
と、誘った。
小田原泉は、棚からリラックス効果のあるハーブティを入れた。
普段人を招き入れたことのない部屋は、一面に緊張感が漂い、お茶を飲んでもちっともリラックスしそうになかった。
「散らかってて……。すみませんね、普段あんまりお客さんが来ることはないので」
「いえ。気を遣っていただいてすみません。ありがとうございます」
小田原泉が渡したカップをソーサーごと両手で受け取り、山本善子は頭を下げた。
「今度教えるヨガは、対面?」
山本善子は、口をカップから離しながら、頷いた。
「私、オンラインでしか教えたことなくて、対面は初めてなんです。だから緊張しちゃって。お引き受けしようか迷ったんですけど、オンラインで教えてた生徒さんの中に、桜の宮の役場でスポーツ振興課にお勤めの方がいらして、その方に声をかけて頂いたんです」
「そうなんですね。それは嬉しいですね」
「ええ。それで、やってみようかなと思って」
「いいですね。柏の宮でもそういう教室みたいなのないのかな? 私、習ってみたい、ヨガ」
「ありますよ。生涯学習センターとか体育館とか、結構あちこちでやってます。広報誌とかに載ってます。あとネットとか」
「そうなんですね。今度調べてみます」
「あの……もしよかったら、私のレッスンに出てみませんか?」
「それいいかも。今度レッスン日を教えてください。時間が合えば是非参加したいです」
はにかむ山本善子を見ながら、小田原泉は、努めて明るく答えた。
そうすることで、黒い沼の底に足を取られて身動きができす、その心に絡みついた泥を拭って進むことができると思った。
でも、人の心の機微はそんなに単純ではなかった。
「あの、さっきのなんですけど……」
「え? ……あ、はい」
「あの人たちは、うちの息子に何をしようとしてるんですか?」
小田原泉が答えに窮していると、山本善子は続けた。
「思いやりがお金に換わるなんて、私だってどうかと思います。でもそれは、息子が考えたわけじゃなくて、竹林町長が公約として掲げたもので……。あの人の理想の実現化を夫は手伝ってます。でもそれが、夫の仕事だから。私たちは、それによって手にしたお金で、生活しているのだから」
「……はい」
「でも息子は……。息子はただ、父親の仕事を楽にしてあげたくて、父親に褒めてもらいたくて、持ってる知識と技術を披露しただけなんです。それなのに……どうして。どうして息子が嫌な目に遭わされなくてはならないのですか?」
「そうですね」
「小田原さんも思ってます? 調子に乗ったバカな若者だと。世間の冷たさを知るがいいって」
「まさか。思うわけないじゃないですか。無策な大人たちに振り回されてむしろ気の毒だと思っています」
「やっぱり止めればよかったのかな……。そんなことは大人がやるからあなたはいいって。夫にも、子どもを巻き込まないで、って言えばよかったのかな……」
「ご自身を責めるのは止めましょう。あなたは何も悪くない。もし私が母親だったら、きっと同じように息子の背中を押したと思います。ただ役に立ちたいと思って動く子どもの成長を、喜ばない親はいないから」
山本善子は声を上げて泣いた。二人は松野から少年を守ることを誓った。
【第二十二話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
山本善子が居合わせたのは、そういうわけだったんですね。幻の林檎よりも何よりも、中学生の心を踏みにじろうという計画に怒った小田原泉と山本善子。さてここからはどんどん驚きの展開が待っています。次回をどうぞお楽しみに!
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