潮時 第二十八話

【第二十八話】

この間、電車に乗って、二人で新宿のデパートまで買い物に行った。

ふと目を離した隙に、鶴子が行方不明になった。
最初はトイレにでも行ったのだと思って、見失った階の婦人用トイレの前のベンチで待っていたのだが、待てど暮らせど出てこない。そういや携帯があったと思い出し、電話してみたが出ない。何度もかけて、三度目の呼び出しでやっと繋がった時、鶴子は一人駅に向かっていた。

昔から、気に入らないことがあると、プイっとどこかへ行ってしまう癖はあった。
だから今回も、何かまずいことをして怒らせてしまったのだと思った。

でも、受話器から聞こえた鶴子の言葉は、満男が拍子抜けするほど普通だった。

「あら、お父さん。どうしたの?」

「どうしたのって……。お前、どこいるんだよ」

「駅よ」

「なんで勝手に帰るんだ。俺、デパートの中で待ってたじゃないか」

「えっ? お父さんも来てたの?」

「一緒に来てただろう。どうしたんだ」

「……あれ? そうだった? あ、そう……」

「あ、そう、じゃないよ。買い物はどうするんだ。終わったのか?」

「買い物? ……ううん、終わってない」

「終わってないのに帰るのか? 具合でも悪いのか?」

「ううん。別に悪くない」

「なら、せっかく来たんだし、買い物して帰ったらいいじゃないか」

「……そうね。じゃ戻るわ。お父さん、どこにいるの?」

「いつもの、電話かけてる女の人の銅像の横にいる」

「わかった。じゃあ、そこに行くわ」

百貨店は駅直結になっているから、20分もあれば来ると思った。
だが、30分待っても40分待っても来ない。しびれを切らしてもう一度電話したら、

「あら。お父さん。大変なの。女の人の像、ないのよ」

「ないって……。あるよ。今、俺、その横にいるんだから」

「えっ……」

「……お前、今、どこにいるんだ?」

「どこって……。1階の大階段のところよ」

「1階? なんでそんなところにいるんだ。10階だぞ」

「え? お父さんの言ってるのって、どんな銅像のこと?」

「どんな像って……。若い女が電話をかけながら立ってるやつだぞ。いつもこの銅像の隣のベンチで待ち合わせするじゃないか」

「そう、その像よ。私の思ってるの。それ、1階にあったでしょ?」

「え? ……お前、いつの話してるんだ。そんなのずっと前に移動したじゃないか。確かに、昔はそこにあったけど」

「いつよ」

「だからずっと前」

「私、知らないわ。そんなの」

「知らないことあるか。こないだもここで……。もういい。とにかくそこで待ってろ。俺が下りてく」

「いいわよ。どこに移動したのか確認しないと、これから困るもの。私が行くわ。それ、どこにあるの?」

「10階。大丈夫か? ホントに来れるのか?」

「行けるわよ。10階のどのへん?」

「眼鏡屋の前」

「わかった。行くから、ちょっと待ってて」

10分ほどして鶴子がエレベーターで上がってきた。

「そうよ、この銅像よ。思ってたやつ。これ、1階にあったでしょ」

「随分前な」

「いつ移動したの?」

「いつかは覚えてない」

「最近じゃない?」

「いや。4、5年は経ってるんじゃないか? もっとか?」

「嘘よ」

「嘘ついてどうする」

「だって……。私、ここにあった記憶ないもん」

これ以上、あったなかったと言い合っても意味がない。お前が間違ってると、打ち負かしたいわけでもない。思い違いや物忘れなんて、歳を取れば当たり前のことだ。でも……。

満男には、思い当たることが多すぎた。

ちょっと前から、料理の味付けが変だった。
年寄り向けの健康料理とやらで、薄味にしたのだと思った。
ところがそうかと思うと、目が覚めるほど濃い味の日もある。作るのが面倒で総菜を買って来る頻度が上がったので、総菜屋の味付けの違いだろうと思った。

でも、他にもあった。

あれほど整理整頓好きな女だったのに、洗濯し終わった衣類やタオルを片付けずにそこいらに出しっ放しにしてたり、同じ商品の買い置きがやたら増えたりして〝あれ?〟と思ったのだ。

そういうことがある度に、古希にもなれば、こういうこともあるよなあと深く考えないようにしたけれど、もしかしたら、そういうことなのかもしれない。

満男は暗い気持ちになった。

旅行のための重い荷物を一人で持って、人の多い乗換駅で、挙動不審な鶴子を連れて、うまく立ち回れるか満男は不安だったのだ。だから、

「いや。車で行く。荷物もあるし。なんとかなる。大丈夫だ」

と強く言って、譲らなかった。
章子は、「でも……」と言いかけたけれど、新一がそれを制した。

当日は結局、章子が二列目に着けているチャイルドシートのうち一つを外し、空いた座席に、満男か鶴子のいずれかが座れるようにして、新一の運転で迎えに来た。

「外してよかったのか?」

「まあ……。萌は9歳だから。そろそろなくてもいいのかなって。この子、背も高いし。130センチは超えてるから、安全面でも、法律面でも問題ないみたいだし」

「そうか。悪かったな」

「ううん。でも、空はまだ小さいから、外せない。三列目に付けるのは危ないから、移動するのはちょっと避けたいし。お父さんたちのどちらか一人は、後ろに座ってもらうことになって申し訳ないのだけど」

「私は後ろでいいわよ。ばあば、萌ちゃんの隣ね。楽しみだわ」

鶴子が微笑んだ。

定位置から三列目に押し込められたため、二列目の前方に付いているモニターが見えづらくなって、萌は不満そうだった。

「萌、ごめんな」

満男は振り返って孫の顔を見た。

「別にいいよ、もう」

萌は、鞄から携帯ゲームを取り出して遊び始めた。その横で、鶴子が画面を覗き込む。

「ばあばもやる?」

「いい。やり方、わからないから」

「教えてあげるよ」

「いい。ばあば、そういうの、できないの」

「そう」

楽しそうにゲームに熱中する孫を見つめる鶴子の表情は、とても穏やかで、満男は一人、心の中で唱えた。

(大丈夫。何でもない。いつもの鶴子だ。俺の気のせいだ)

そんな満男の祈りも空しく、鶴子はこの旅で再び問題を起こした。

それは、旅の終わりに起こった。
高速を使っての帰路、立ち寄ったサービスエリアで鶴子はいなくなった。

【第二十九話へ続く】

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『潮時』第二十八話、いかがでしたでしょう。気のせいだと思いたい不穏な兆候があれもこれもと思い出される……身近な人の物忘れ・認知症に限らず、「あの時のあれがもしかして、やはり」と後で納得する経験を積んでしまっている方ならば、この静かなエピソードにドキドキしてしまうはず。私もそうです。鶴子さん、高速道路の途中で迷子!? ハラハラしつつ、次回もどうぞお楽しみに。

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