
【第二十九話】
「あれ? お母さんは?」
章子が、辺りをきょろきょろ見回す。
「萌、あんた、ばあばと一緒にトイレに行ったんじゃないの?」
「行ったけど。私、先に入ったから。ばあばもすぐ、他のところに入ったよ。おしっこし終わって、手を洗うとこで待ってたけど、来なかったから外に出たの。そしたら、空とパパがいて……」
「ばあばが出てくるの、待ってなかったの?」
「だって……。空がアイス食べたいって言うんだもん」
「お前は見てなかったのか?」
満男が章子に問う。
「私は、萌と一緒にいると思ってたもん。二人より少し遅れてトイレに入ったけど、お母さん、いなかった。だからてっきり萌と一緒に出たと思ってた」
「誰も見てなかったのか」
「私、ちょっと見てくる」
そう言って、章子はトイレの中へ入っていった。
新一が、「車のところに戻ったのかもしれない。お父さんは、ここで待ってて下さい」と言って、子どもたちを連れて車に戻った。
暫くすると、新一は一人で、再び満男の元へ戻ってきた。
「やっぱり、いなかったです。お母さん」
「子どもたちは?」
「人多いし、あいつらまで迷子になったら大変だから、とりあえず、車の中で待たせてます」
「子どもたちだけで大丈夫か?」
「僕が鍵持ってるので。すぐ見つかるでしょうし」
「だといいが……」
「時間かかるようだったら、一旦戻りますよ」
そこに、トイレに探しに行っていた章子が戻ってきた。
「駄目だ。いない。大きい声で呼んだんだけど、返事ない」
「中で倒れたりしてるってことは、ない?」
「それは……。わかんないよ。個室を片っ端からノックして回るってわけにもいかないし。……あれ? 子どもたちは?」
「ああ。車で待たせてる。万が一、お母さんが戻ったとしたら、あいつらから連絡来るだろう。携帯置いてきたから」
「そう……。どこ行ったんだろう。お母さん」
「土産のところにもいないのか?」
「あ、見てない。ちょっと見てくる」
そう言って、章子はフードコートを兼ねた店舗に入っていった。
「僕もその辺、ちょっと見てきます。お父さんは車に戻っていてください」
新一は、満男たちの車が停まっている駐車場とは、トイレを挟んで反対側にある駐車場へ走っていった。
このサービスエリアは、トイレを挟んで、上り車線と下り車線の駐車場が隣り合って設置されていた。車同士の行き来はできないが、人の往来はできた。
確かに、トイレから出た時に間違って反対側に出た可能性は否めない。
満男は言われたように車には戻らず、新一が戻ってくるのを待った。
「駄目だ。どうしよう……。どこにもいないよ、お母さん」
戻ってきた章子は、かなり焦っていた。
「エリア・コンシェルジュ……だっけ? 案内所にいる人。あの人たちに相談したほうがいいのかな? ……ていうか、こういうこと、よくあるの? いなくなったりするの」
「いや……」
「なんかさ、お母さん、最近ちょっと変じゃない?」
「そうか?」
「元々方向音痴なところはあったけど、こんなことって、なかったよね」
「そうだな」
「あれ? 新一は?」
「ああ。あっちの駐車場を見てくるって」
「そっか! 確かに、反対側に出た可能性はあるよね。私もちょっと見てこよっかな……」
章子が行こうとしたその時、新一が鶴子を連れて歩いてきた。
「あ、いたいた! 良かった。もう! 心配したんだから」
章子の顔を見つけると、鶴子の表情が和らいだような気がした。
「どこにいたの?」
「あっちの駐車場をうろうろしてた」
「良かったあ。ほんと、良かったよ。マジで焦っちゃった」
「ごめんね。ちょっとわかんなくなっちゃった。心配かけたわね」
「本当よう。生きた心地しなかった」
「大げさねえ。ちょっと迷子になっただけじゃない」
母娘は互いに背中を擦り合いながら、言葉を交わした。
その二人を見ている新一が、少し浮かないような顔をしていたのが、満男は気になった。
「ん? どうした? 新一くん」
「いや。別に。……とりあえずよかったです。車に戻りましょう」
章子が満男の家を訪ねてきたのは、喜寿の旅から一週間経った週末だった。
「おや? 珍しいね。今日は子どもたちは?」
「新一が見てる」
「そうか。何か用か?」
四月とは思えない暑さのせいで額に汗を浮かべた章子は、
「あー、暑かった。ここ、坂道だから、汗かいちゃうのよね。とりあえず、冷たい飲み物もらっていいかな」と言った。
「ああ。気がつかなくてすまんな。持って来ようか」
「いい、いい。自分で取りに行く。ところで今日、お母さんは?」
「自分の部屋にいるだろう。また編み物だ」
「レース編みか。お母さん、好きだよね」
「そうだな」
コップに冷たい麦茶を入れて一気に飲み干した章子は、一息吐いて吹っ切ったように満男に尋ねた。
「あのさ、単刀直入に訊くね。お母さん、認知症じゃない?」
満男は、胸を矢で突き抜かれたような打撃を感じ、「……なんで?」と答えるので精一杯だった。
「こないだ、サービスエリアで迷子になったでしょ。あの時、新一が見つけてくれたよね。でもそのときね、お母さん、新一のこと、わからなかったみたいなの。知らない人と思ったみたいで、呼んでも無視して逃げちゃうんだって。〝章子の夫の新一ですよ〟と言って、漸く逃げるのやめたみたいなんだけど……」
「……そうか」
「そうかって。お父さん、やっぱり何か心当たりがあるでしょ?」
満男が答えに窮していると、
「ほら、やっぱり。なんかあったのね?」
と、さらに突っ込んできた。
「いや。別に変ったことはないよ。まあ、年相応に呆けてきてはいるけど、そんな……認知症だなんて。こないだだって、ちょっと迷子になっただけじゃないか。あいつ方向音痴だし、別にそんなの、今に始まったことじゃないよ」
「ううん。それだけじゃないの。私さ、あの旅で、お母さんに驚いたこと、まだあるんだ」
「……なんだ?」
「旅館に泊まって朝起きた時、お母さん、ちょっと混乱したのよ」
「寝ぼけたんじゃないのか?」
「ううん。そう言うんじゃないと思う。私もさ、いつもと違うところに泊ったりすると、起きた時に〝あれ?〟って思う時はあるよ。でもすぐ思い出すじゃん。お母さんが〝ここ、どこ?〟って言うから〝箱根の旅館だよ〟って教えたら〝いつ来たの?〟って。前日の記憶もないんだよね」
「そんなの……。ちょっと忘れただけだろう」
「そうかなあ……」
「それだけか?」
「ううん。まだある。お母さんってさ、食べるの大好きで、外食する時はいつも、メニューの中から選ぶの、時間かけてたじゃん?」
「そうだったか?」
「うん。〝これもいいけど、あれもいいわね〟とか言って、迷って選べなくて、ものすごく時間かかるの。時々、お父さんが急かすと〝もう! 食べる物くらい、ゆっくり選ばせてよ!〟って怒ってた」
「そんなこと、あったかなあ」
「そうでした、いつも。なのにさ、こないだ帰りに立ち寄ったファミレスで、メニューを開いて1分もしないうちにすぐ閉じたのね。珍しく選ぶの早いなあって思ったのよ。でもさ、いざ注文する時になって〝何食べる?〟って訊いたら、〝アンタと同じものでいい〟って言うのよ」
「人の選んだものを見たら、そっちが良くなるってこともあるだろう」
「だって……。私、ラーメンだよ。選んだの」
「えっ」
【第三十話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第二十九話、いかがでしたでしょう。物忘れがひどいことは受け入れられても認知症は受け入れられず否定する、それくらい「認知症」は悪魔めいた顔をしているものでしょうか。そして今回のお話の「潮時」はその悪魔との対決または共存なのか? 「ラーメン」の一言に満男がショックを受けている様子が何やらリアル。ラーメンと鶴子にはどんな因縁があるのか、次回もどうぞお楽しみに。
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