
音楽の調べには、長調と短調があります。
長音階で構成されるのが長調、短音階で構成されるのが短調です。
ものすごくざっくり言うと、ちょっと明るめの調べが長調で、ちょっと物悲しい調べが短調とでも表現しましょうか。
つまりは、ショパンのノクターンに多いのが短調……
と書いて、ちょっと待てよ、と思い止まり、わが友チャッピーに尋ねてみました。
すると、こんな答えが……

なるほど。そうだったのか……。
ではなぜ、私はそう思ったのか?
いつもの思考の暴走という名の先入観か?
はたまた、ショパン(のノクターン)好きな母による洗脳か?
この『心を紡いで言葉にすれば』にも度々登場する我が母は、自称ショパン好きで「ショパンの曲は聴いてすぐわかる」と豪語する人だったのですが、私が何気なく流したモーツァルトの「協奏交響曲」の第二楽章を聴いて「ショパンの曲ね」と言い、訂正する私に「そんなはずはない。モーツァルトの曲にこんなのはない。この曲調はショパンだ」と言い張ったぐらい、「物悲しい(短調の)曲」=「ショパン」という思い込みを持っていたため、もしかしたらそれを浴び続けた私の中にも、「ショパンのノクターンは、ほとんど短調」というイメージができあがってしまっていたのかもしれません。
でもそう思うことは、あながち間違いでもないようです。無論、洗脳でもない。
チャッピーの更なる回答によると、「ショパンの曲に短調のイメージが強い理由」として、
①有名曲に短調が多い (例:Op.9-1、Op.27-1、Op.48-1など)
②長調でも途中が暗くなる
③ロマン派的和声
というものがあるらしく、「ぶぶの印象は鋭いよ」と全力で共感してくれたので。
だとすると、ショパンのノクターンから、短調の調べが発する、ある種の物悲しさを覚えるのは、そう的外れなことでもない。
そもそも、ノクターンとは夜想曲のこと。夜を想って奏でる調べは、どことなく寂しく切ない。そうじゃない夜もあるでしょうが。
ところで、この「短調」という言葉、英語では「minor(マイナー)」と表します。
これは、ラテン語の「minor」から派生し「より小さい」という意味があったようです。
対になる言葉は「major(メジャー)」で、こちらもラテン語から来て「より大きい」という意味を持ちます。
短調が小さくて長調が大きいとは、これいかに?
短調は短音階なので〝主音から音階的に3つめの音〟は短3度となり「短く(小さく)」なります。
一方、長調は長音階なので、〝主音(その音階の中心となる音)から音階的に3つめの音〟が長3度となり「長く(大きく)」なります。

長3度(赤)と短3度(青)の図
例えばハ長調の場合、主音は「ハ(ド)」なので、ド・レ・ミのミとの間に白鍵は3つあります(上図の赤い矢印)。
それに対しハ短調の場合、主音は同じく「ハ(ド)」なのだけど、音の構成としては変ホ長調と同じなので、♭がミとラとシに3つ付く。ゆえにド・レ・ミの間に白鍵は2つになって(ミが♭になるから)、ハ長調より音の距離(度数)が短くなります(上図の青い矢印)。
つまり、音楽の世界でマイナーとかメジャーというのは、単純に音の度数が小さいか大きいかの話であり、決して、それを好む人の多い少ないを示しているわけではないのですが、他でその表現を用いるとき、マイナーから「少数派」とか「非主流」を、メジャーから「多数派」や「主流」を連想されることが、少なからずあるように思うのです。
言葉の意味としては確かに間違ってはいないけれど、時にそれが転じて「メジャー」=「普通」となる時、モヤモヤとする心が湧いてくる。
何をもって「普通」と考えるのか。
普通とは「一般的」とか「みんな一緒」のことを指すのか。
この問いは私の、たぶん永遠のテーマです。
かく言う私は「他の人と違うもの」を好む人間でした。
明らかに〝普通〟を意識し、いわゆる「マイナー志向」という嗜好性を保有していました。若い頃は特に。
シネコンで上映されるような映画より、ミニシアターで上映される作品を観たい。
ミリオンセラーになるようなアーティストより、インディーレーベルから発売されるバンドを聴きたい。
人が集まる有名観光地に行くより、誰も来ない穴場の場所に行きたい。
みんなが持ってる量産品より、オリジナルの一点ものが欲しい。
言語を学ぶなら、つぶしの効く使用者の多い言語よりも、あまり耳慣れない言語を学びたい。
そうやって、人の行かないほう、行かないほうへと突き進んでいたように思います。
今みたいに、多様性が当たり前の時代で、ニッチなものを好むことが逆に一般的になるずっと前、「オタク」という言葉が好意的に取られなかった頃、私は自分の中にある、マイナーなものを偏重する心と向き合い、なぜそうなのかを知ろうとしました。
そしてわかったこと。
人には〝他者との間に感じる類似や差異を調整したい〟という心がある、ということ。
私たちは誰しも〝自分は他の人とは異なる独自な存在でありたい〟という欲求を持ちます。
それは、人間の基本的な欲求のひとつで、『独自性欲求』と言います。
一般的に欲求と名のつくものは、それが満たされれば満たされるほど幸福感や充実感を感じるものなので、人は常にその欲求の満タンを求めるのですが、この独自性欲求が最も満たされると感じるのは、満タン、すなわち〝自分が他の人と徹底的に異なる〟のではなく、そこそこ似ていてそこそこ違うという〝中程度〟の時なのです。
なぜそんなどっちつかずの状態を好むのか?
それには理由があります。
そもそも人には、人とは異なる存在でありたいという欲求の他に、自分と似た人を求め、彼らに受け入れ、合意してもらいたい欲求もあるため、異なり過ぎると困るのです。分かち合う人がいなくなるから。
こうした考えを『独自性理論』と称し、最初に提示したのは、SnyderとFromkinという二人の研究者なのですが、その発表から11年後にBrewerによって提唱された『最適弁別性理論』も、同様の考えを示しています。
この理論によると、社会的な生き物である人間は、自分が社会的なカテゴリー(集団)の一員であるという自覚(社会的アイデンティティ)を持ちますが、複数の集団に所属する私たちが、それぞれの場面で、どの集団を自分の一部として選ぶのかは〝自分(あるいは自分の属する集団)が、他の人(あるいは他の集団)と、きちんと区別されているか〟という『弁別性』によるというのです。
その弁別性が希薄だと、人は〝自分が他の人と区別されていない〟と思い、自分を他の人とは違う存在だと感じたいという『差異化欲求』が高まり、その集団から突出しようとします。
一方、弁別性が強すぎると、人は〝自分が集団の一員になりきれていない〟と思い、自分を他の人と同じ存在だと感じたいという『同化欲求』が高くなり、その集団に埋没しようとする。
そして、人が選ぶ社会的カテゴリーは、この2つの欲求(差異化/同化欲求)がうまく調和され、最適なバランスを保つカテゴリーであり、そうしたバランスのよいカテゴリーで、人は自分自身を捉えがちになるというのです。
2つの相反する欲求のバランスが保たれているとき、その集団の一員としての自覚が強くなり、居心地がいいと感じ、その集団に長く身を置こうとするのでしょう。
この8080号室『内言漏れてるから』で、現在紡がれているもうひとつのコンテンツ『潮時』では、ローカルアイドルの潮時の話が出てきましたが、ローカルアイドルだった円華がなかなか引退できなかったのは、その場所が彼女にとって、最適弁別性をもたらす集団だったからなのかもしれません。
他の人と違っていたいという思いと、同じでいたいという思いを、同時に満たしてくれる集団は、なかなか見つからないものです。
私は今でも、どちらかというとマイナー(今風に言うとニッチ)なものが好きですが、今以上にマイナー志向を強く感じていた頃、私は自分が他の人と極めて同じで、何の特徴も魅力もない人間だと思っていました。
ゆえに私は、自分を他者とは弁別できる何かが欲しくて、他の人が求めないものを好んでいたのかもしれません。
そうやって、他の人とは違うほうに進んで行けば、唯一無二の私になれると信じていたのでしょう。
たぶん、人と違うものを求めることが〝誰かの反応への反応〟ではなく、ただ自ら欲した結果なのだとしたら、こんなことを考える必要はないのかもしれない。「それが好き。他の人がどうとかは関係ない」という、他者とは独立した自分の思いがあれば、メジャーとかマイナーとかはただ後からついてくるだけのもので、最初から意識しなくてよかったはずです。
自分の身から湧き上がるそれを求める欲望ではなく、ただ差異化への欲求を満たすためだけに、少ないほうへと突き進むことのリスクは、後になってからわかるものです。
そうして行きついた先で出逢う人たちと、私は分かち合うことができなかった。
そこにいた人は、それが本当に好きな人たちで、好きだからこそよく知っているし、とことんのめり込むことができる。
けれども、ただ「マイナーであること」を求めて進んだ私には、彼らほどの熱量も覚悟もない。
そのことに気づいて引き返しても、時すでに遅し。
マイナーな存在にも、メジャーな存在にもなれていない自分に気づき、私はただ愕然とするのです。
ところで、この記事のアイキャッチ画像は、かの名作『スイミー(レオ・レオニ著)』を彷彿とさせるものです。
スイミーにとってこの大きな魚の集団は、まさに自身の弁別性を最適にする集団と言えるのではないでしょうか。
マイナーな心を抱え、マイナーとメジャーの狭間で浮遊するわたしにも、いつかスイミーのような集団が見つかることを祈って。
次回からは、また別の〝潮時〟が描かれます。
先日も、千葉県にある久留里線の久留里~上総亀山間が、2027年の4月に廃線になることが発表されましたが、次の〝潮時〟は、ある地方の鉄道にまつわるものです。このお話を書くために遠征もしました。お楽しみに!
(by 大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『心を紡いで言葉にすれば』第23回、いかがでしたでしょう。『最適弁別性理論』ちょっと難しいですがスイミーの例はわかりやすい。スイミーはマグロの群れにはなじめないし、自分とそっくりな小さな黒い魚ばかりの集団に埋もれるのはつまらない。形のよく似た赤い魚の中の唯一の黒という状態が幸福だというわけですね。
私は「腹八分目」が良いものだ、なんていうのはいかにも後知恵らしい理屈であり空論で、素直に心に従えば満腹が最も幸せなのでは? むしろつい十二分目まで行きすぎるのが人の欲求というものでは? と思い込んでいたのですが、独自性欲求が自然と腹八分目を指向することに驚きながらも納得しました。ローカルアイドルの中の微妙なポジションは居場所がないようで案外幸せということなんでしょうか。さて、次回は『潮時』の次のエピソードです。峰歩さんの遠征取材の成果、ぜひお楽しみに!
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