【第六話】
わたしと細胞を分け合った双子の弟は、わたしの家からすぐのところに住んでいて、わたし同様、母に呼ばれてすぐ駆け付けられる距離にはいない。
どう少なく見積もっても、電車で三時間、車で六時間はかかる。
「ちょうど在宅勤務だし。リモートでもやりくりできるから。週の半分くらいなら、僕だけこっちに戻ってきて……」
「週の半分って……。じゃあ、それ以外の日は、どうするの?」
「適当に食べ物買って置いておく。パンとか」
「ずっとパンで過ごさせるの?」
「じゃあ宅配弁当の手配でもするよ。病院の人に教えてもらったし」
「受け取りは? お母さん、玄関まで行けないよ」
「その辺はうまくやるよ。でもさ、そもそもよ、本当に折れてたら痛くて歩けないよね。歩けるんだから、折れてないんじゃないの」
「痛み止め飲んでるからじゃん。わたしが訊くと、痛いって言うよ」
「へえ、そうなんだ。あんまり痛そうじゃないなら、逆に歩かせたほうがリハビリになるかと思ったりしたんだけど……」
「それは骨がある程度くっついてからでしょ。まだ二週間だもん。今歩かせるのはダメだよ。伊藤さんも言ってたけど、骨が付く前に何度も立たせちゃうと、せっかくくっつきかけてもその都度また離れるんだって。そうすると、どんどん治りが遅くなって、結局、治らないままになって、この先、本当に歩けないようになっちゃうかもしれないって。本当はギプスとかして無理に動かないようにするんだろうけど、お母さんが折った箇所はそういうのもできないから。それなのに、忘れて歩いちゃうし……。だから入院させておく必要があったのよ」
「……本当に折れてんの? レントゲンにも映らなかったんでしょ」
「わかんないけど……。でも実際、すごく腫れてて、変色してるんでしょ? だったら、少なくともひびくらいは入ってるんじゃないの。それにさ、たとえ足がよくなったとしても、この先、もうお母さん一人で暮らすのは無理だと思うんだけど……」
「なんで?」
「……お母さんの認知症、少し進んだと思わない?」
「そう? 確かに、ちょっと物忘れはあるけど、前と同じだよ。今は骨折して混乱してるから、変なこと言うだけだって」
「確かに、混乱はしてるかもしれない。でもさ、普通、たとえ混乱してても、自分の足が折れていることをあんなに簡単に忘れちゃうってこと、ある? 痛みも腫れも変色もあるのに。それを〝物忘れがあるから〟で片付けられる? ていうか、お母さん、この数週間で、一気に症状が進んだ気がするんだけど。アンタ、実際お母さんと会って、そんなふうに思わない?」
「別に」
「そうか……。わたしは、ちょっともう一人で暮らすのは、難しいと思う。少なくとも、自炊はもう無理」
「そんなことないよ。姉ちゃんはなんでそう思うの?」
「アンタには言わなかったけど、結構前からおかしいとは思ってたの。例の緊急事態宣言とか出る直前の年末に帰った時かな、お母さんと一緒にごはん作ったの。そしたら、いつものところに調味料がないの。お塩とかお砂糖とか、味噌とか醤油。料理してたら、そんなの当たり前に使うでしょ。毎日毎回。なのにないの。切らしてるのかと思って、買い置き探したけどなくて、お母さんに訊いたの。そしたら、わたしたちがまだあの家に住んでた頃に置いてた場所を言うのよ。確かに前はそこに置いてたけど、わたしたちが家を出てから、お母さん、自分で使いやすいようにレイアウト、変えたよね。なのに、それ覚えてないんだよね」
「また変えたんじゃない?」
「そうかと思って、訊いたの。場所変えた?って。でも、変えてないって言うの。置くところなんて一度も変えたことないって。ずっとここに置いてたって、30年前の置き場所を言うんだよね。まあ、そこにもないんだけどさ」
「ふうん」
「あちこち探してやっと見つけたの。驚いたわよ。お塩とお砂糖、冷蔵庫に入ってたんだよね。しかも野菜室。味噌は冷凍庫だし。まさかそんなところに入ってると思わないじゃない」
「テレビとかでやってたんじゃないの? そういうところに入れると日持ちするとか」
「だって、お母さん自身が驚いていたのに? そんなところに入ってたのって」
「ぼんやりしてて、入れたの忘れたんじゃない? 僕、聞いたことあるよ。ぼーっとしてたり、泥酔したりして、冷蔵庫に鍵しまうとか。信じられないけど」
「まあ、そういうこともないとは言えないけど……。でもお母さんの場合は、たぶん、そういうのとは違うと思う。そういう時って、もう一人の自分に仕掛けられた罠に落ちたみたいな感じで、ちょっと気恥ずかしくなるじゃん。やられたよ、自分に、みたいな。オウンゴールみたいな? わたし、サッカーしたことないからわからないけど。自分の掘った穴に自分で落ちたことを知って、ハッとするの。普通はね」
「うーん。そういうもんかな。よくわからない。僕、そういうこと、ないから」
「あ、そう。わたしは時々あるんだけどさ、マイトラップに引っ掛かるの」
「へえ、姉ちゃん、あるんだ……」
「時々、頭がぼうっとしちゃうんだよね。自分でしたことなのに、よく覚えてないの」
「えー、怖いな。若年性ってやつ? 検査とか受けた方がいいんじゃないの? ていうか、お母さんと同じタイミングで発症するのはやめてくれよ、迷惑だから」
「失礼ね。私のは、またそういうのとも違うのよ。物忘れとか認知症とは違って、別に今始まったことじゃないし。子どもの頃からだから。自分なのに自分じゃない感じっていうのかな……。確かに最近は、ちょっと多くなってるんだけどね。歳なのかな。まあそう考えたら、お母さんの調味料のことも同じなのかなあ……」
「そうだよ。同じ同じ」
「うーん。でもなんか違うんだよなあ。うまく言えないけど。確かにそういう時、怖くなるよ。何も覚えてない自分が。でもその後、ホッとするの。もう一人のわたしがわたしをフォローしてくれたのかなって。わたしがぼうっとしている間に、ちゃんと働いて、人付き合いして、生活してくれてたのかな、って。まあ時々、悪戯されたりするんだけどね。鍵を冷蔵庫に入れられたり。でも、お母さんは違う。戸惑ってるっていうのかなあ。困った顔をしたかと思うと、ちょっと悲しそうにして、首を傾げるの」
「へえ……」
「そう。しかも次の瞬間、突然〝今までずっとここにしまってきた。アンタが知らないだけよ〟とか言い出すの。さっきまで〝誰がこんなところにしまったのかしら?〟って言ってたのに」
「えっ、マジ?」
「うん。急に話のつじつま合わせに来るんだよね。全く合ってないんだけどさ。たぶんもう、わからないんだよ、調味料の場所。使った瞬間、元あった場所がわからなくなるから、毎回適当に戻す。で、次使うときに、またわからなくなる。その繰り返し。そんな状態で、本当に自炊ってできてると思う?」
「……でもさあ、電話した時に毎回〝今日は何食べたの?〟と訊くんだけど、いつもちゃんと作ってたみたいなんだけどなあ」
「その時、何作ったか聞いた?」
「うん」
「なんて言ってた?」
「えーっと……、おでん、が多かったかなあ」
「やっぱり……。いつもおでんなんだよ。一人だと作りすぎちゃって、何日もかかって食べるって」
「あー、うん。確かに。そう言ってた」
「そのおでんなる食べ物を、冷蔵庫で見つけたことがあるの。タッパーに入ってた。大根を炊いただけの、他に具材が何もないやつ」
「へえ……」
「いくら食べ残しでも、大根だけこんなにたくさん残るかなあ。最初から大根だけだったんじゃないの。それだってさ、色も薄くって。残り物の割には味が沁みてる感じなくて。恐る恐る一口食べてみたけど、全く味がしないのよ。ちょっと変な臭いもしたからすぐ捨てたけど」
「腐ってたってこと?」
「うん。なのに〝まだ食べれるのに勝手に捨てないで〟って怒るの」
「……そうなんだ。味覚がバカになってるのかな」
「五感が鈍くなってるのかもね。調味料の場所や作ったものを管理できなくなってるのもそうだけど、そもそも作ること自体が難しいんだよね。料理ってさ、マルチタスクなのよ。出来上がりの時間から逆算して、いろんな食材をいろんなふうに下ごしらえして、調理して。一品作るのも段取りがたくさんあるのに、同時に何品も作るわけじゃん。かなり頭を使う作業なんだよね」
【第七話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『刺繍』第六話、いかがでしたでしょう。「わたし」と双子の弟の会話、何気ない姉弟の会話のようでいて緊張感があります。同じことに対する認識の大きな違い。家族の中でよく起こりがちなことかもしれません。「わたし」が自分のかけた罠にしばしばかかるという記述も意味深で、気になりますね……。この先、母・弟と「わたし」三者の関係に次第に光が当たるのか? 次回もどうぞお楽しみに。
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