【第九話】
情に絆された弟の行動で中断したものの、ケアマネージャーと相談し、母はやはり老健で治療とリハビリをするのが妥当だとされた。
実家の辺りは農家も多く、連休中は田植えなどの農作業の繁忙期のため、ショートステイの高齢者が多く、母が入所できるのは、その人たちが退所する連休明けになった。
それまでの間、わたしは夫と離れ、一人、子どもの頃から暮らした家で、足を折ったことを瞬時に忘れる母と過ごした。
母が静かにベッドに横になっている時間は、毎食後の2時間くらいで、それを過ぎると一人ベッドから出て、四つん這いでわたしのいるリビングへやって来た。足を折ったことは忘れているけれど、さすがに立つと激痛が走るらしく、歩くことはできなかった。
週に一日来る訪問看護のスタッフが、「このままでは、膝の半月板もダメになる」と言ったので膝のサポーターを付けたが、痩せ細った母の足にそれは大きすぎて、調整ベルトを適度に締めてもぐるっと回ってしまい、膝の裏をサポートするような状態になり、却って危なくて取り外さざるを得なかった。
「膝まで痛くなるからダメよ」とどれだけ制止しても、母は這うことを止めようとしない。
ブザーを買ってきて枕元に置いて、「用があったらこれを押すように」と言っても効果はなかった。
そうまでして、母がわたしのところに来る理由はたった一つ。食事の心配だった。
「ごはん、どうする?」
「……え? さっき食べたばかりじゃない」
「うん。でも用意しなきゃ。冷蔵庫に何かあったかしら?」
よく、認知症の人がこだわるポイントとして、食と金と色があると聞く。
食にこだわる人は、自分がごはんを食べたか気になり続け、何度となくそれを問う。
食べたくて食べたくて、それが腐っていようが、食べ物じゃなかろうが、口に入れる。何かをもぐもぐしていないと、落ち着かないのかもしれない。
ふと、昔、母が言っていたことを思い出した。
「京の着倒れ、大阪の食い倒れって言うけど、お母さんは京都のほうね」
東北出身の母は、父との結婚を機に移り住んだ、関西の色が少しだけ滲むこの地を、いつまで経っても愛せなかった。
「お母さん、ここの関西の雰囲気があんまり好きになれないの」
「ここは関西ではないけどね」
「でも、広い意味ではそうでしょう。関東とは違う。お母さんは関東の人間だから、そっちのほうが馴染みあるのよ」
「東北は関東ではないけどね」
「だから。広い意味では東日本でしょう」
「まあ、そりゃ半分にしたらそうかもしれないけど」
故郷から一人離れ、周りに頼れる親類縁者もいない中、男性と給与面でも労働面でも差を付けられることのない、当時としては稀有な職をこなしながら子育てをした母。
今ほど、子育て中の女が外で働くことが世間から認められておらず、託児所も保育所もない中で、母は町の人たちの力を借りながら、わたしと弟を育てた。人生のほとんどをこの町で過ごしたにもかかわらず、母は、この町にうっすら漂う〝関西のにおい〟を好きになれなかった。
でもなぜか、京都にだけは親近感を抱いていた。
かつて、東夷と蔑視された東国の人間が、古の都に劣等感を抱いていたように、母の中にも無条件の憧れがあったのかもしれない。
「お母さん、大阪の人みたいに、食べ物に興味がもてないの。でも洋服は好き。きっと感覚が京都の人に近いのよ」
訊いてもないのにそんな宣言をするくらい、昔から食についてあまり興味を示さなかった母からすると、食事が終わると次の食事の心配をする今の姿は、ちょっと意外だった。
母が次の食事の心配をする度に「おなかすいた?」とか「足りなかった?」と尋ねた。
その度に母は、首を横に振って「そうじゃない」と答えた。何度か尋ねて、それが「子どもを食べさせないといけない」という母親の本能から来るものであることに気づいた。
おそらく母は、自分が何かを食べたいわけでも、腹が減っているわけでもない。
ただ、子どもに食事を提供する母の役目を忘れないようにしているだけだ。
思えば、認知症になる前から、母にはそういう面があった。
小学校の教師にだって有給休暇はあるはずだけど、母がそれを使うことは、ほぼなかった。
子どもが病気で寝込んでいても、「学校があるから」と言って、母は仕事へ向かった。
病気の子どもを家に残して仕事へ行くときも、母は必ず食事を用意していった。
その日が午後の授業のない水曜日の場合だけ、午後休を使って帰って来ることもあった。そして、戻るなり「ごはん、食べた?」と尋ねた。食欲がなくて「食べてない」と伝えると、母は買ってきた林檎をすりおろし、「これを食べなさい」と持ってきた。
子どもが成長し、自分で食事の用意くらいできるようになっても、母は食事を作り、提供し続けた。父が亡くなり、いろんなことが億劫になって、手の込んだ料理を作るのが面倒になった頃からは、レトルト食品とか店の惣菜が食卓に上がる頻度が増えたけれど、それでも決まった時間にごはんを出すことを止めようとはしなかった。
そんなふうに食に対して献身的な母が、ただの料理好きだったり、宣言に反して食に執着していたわけではないということは、母一人の暮らしの中での食生活が物語っていた。
冷蔵庫に大量にストックされているのは、茹でたり切ったりした野菜。そして、おそらくそれを消費する際に使う、いろんな味のドレッシング。「ごはん食べるの、面倒くさい」とも言っていた。
母は、子どもに与えるためだけに、台所に立った。
子どもが巣立ち、父が他界した後の母一人の暮らしで、母がまともなごはんを食べていないのを知っていたわたしは、盆暮れに、一流ホテル監修のレトルトスープや、海鮮問屋が出している煮魚の真空パックなどを送っていた。少しでも母が、自分のために食を摂って欲しかった。でもその多くは、賞味期限を遥かに過ぎて、わたしたちが帰省した時に振舞われた。
「大丈夫だよ。わたしが用意するから。お母さんは何もしなくていいよ。安心して、ベッドで寝てて」
四つん這いで、幼児と同じくらいの視点になった母は、「そう」と言い、ゆっくりと方向転換して、自室へ戻っていった。たぶん、数分後にまた、這って来るのだけど。
【第十話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『刺繍』第九話、いかがでしたでしょう。
三つ子の魂百までとよく言います。
認知症で幼少期にかえってしまう人もいると聞きますが、本作のお母さんは、さすがに「三つ子」の頃から母だったはずもないのに、母としての役割だけは忘れない。すごいことですね。主人公の過去にも現在にも及ぼされるこの強大な「母力」と存在感がどんどん明らかになってきました。母との束の間の二人暮らし、主人公の心に何が起こるのでしょうか。次回もどうぞお楽しみに。
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