【第七話】
順調に回っていたさおりの歯車が狂い始めたのは、協力隊二年目の終わり頃だった。
さおりは、41になっていた。
あの後味の悪い飲み会の後、さおりは一層仕事に打ち込み、実績と安住の地を作ろうと尽力した。
穂高との交際も順調で、相手の実家で両親に会うところまで漕ぎ着けた。
あちらの両親は、とても優しくさおりを迎え入れてくれた。ふと誰かに睨まれている気がして視線の先を探すと、そこに、高齢の女性が座っていた。
穂高の祖母だった。
促されて一緒に夕食をとった時には、祖母もにこやかに話しかけてくれたので、睨まれていたのは気のせいだと思った。
だけど、その食事会の一週間後、穂高から「さおりとは結婚できない。ごめん」と言われた。
食事の時に何か粗相をしたのだ、と思った。でも違った。
穂高の親は、さおりの年齢を憂えたのだ。
田舎における結婚とは、イコール子を持つこと。既に四十を過ぎているさおりに、その能力を感じられなかったのだろう。とりわけ強く反対したのは、あの祖母だった。
「婆ちゃんがさ、泣くんだよ。ひ孫が見たいって。俺も、もう36だし。婆ちゃんも、もうすぐ80だし。猶予はないんだ」
そう言って、穂高は今にも泣き出しそうな顔をした。
さおりは何も言えなかった。一年半付き合った穂高とは、それで終わった。
さおりは別に結婚にこだわるわけではなかった。穂高の傍にいられるなら、それでよかった。
その頃には、さおりにとって穂高は、十分特別な人になっていた。でも、穂高はそういう関係を望まないことを知っていた。「付き合った先に結婚がない付き合いは、できない」穂高はそういう男だった。別れるしかなかった。
さおりと穂高が別れたという噂は、あっという間に町中に広まった。
さおりに向けられた好奇の目や哀れみを跳ね飛ばすよう、さおりは、一層協力隊の仕事に打ち込んだ。
シーズンには、ほぼ毎週、都会からやって来る人たちを山に連れて行った。
誰も集まらなくても一人で山に登り、そこから見る稜線の美しさや夜空に輝く無数の星を配信し、山の素晴らしさを伝えた。
シーズンオフには、地元メーカーと地元のゆるキャラが記された山グッズを考案し、町の収益へと繋げた。
地元のキャンプ場を整備して、グランピング施設を充実させ、シーズンオフの時期も一定の観光客を呼び寄せることも成功した。
さおりはまさに身を粉にして働いた。ここでの業績だけが、さおりに残された永住の資格なのだ。その努力が功を奏し、三年目は集大成ともいうべき実績を残した。
ところが、待っていたのは契約満了の通知だった。
さおりは失望した。
あの時の小林の気持ちが痛いほど身に突き刺さる。きっとあの時、乞われるがまま、さおりが誰かを紹介したとしても、結果は変わらなかった。
何も残らなかった。罪悪感さえ。
前に進んでいたと思っていたのに、夢から覚めると一歩も進んでいなかった。
そんな事実を払い退けたくて、山へ逃げ込もうとした。都会では、沈丁花や梅の花が咲き始める頃合いだけど、ここではまだ冬真っ只中。そんな時期のこの町の山には、そう容易く入り込める隙はなかった。
高いのだ。
季節を選ぶのだ。
あの時小林が言ったように、都会でさおりがふらっと逃げ込んだ、奥多摩や丹沢のような里山は、ここらでは顔の知っている誰かの私有地で、その恵みを採って売る財産の一部で、他人が気安く立ち入れる場所ではなかった。
途方に暮れて泣きついたさおりに、松浦は「そこに居たいなら、居る方法はある。あなたは今まで見てきたはずだ。山を愛する人の作り方を。なんたってそこには地の利がある。北アルプスという、山ヤなら誰もが恋い焦がれる山がある。ガイドになりなさい。あなたには十分、それができるはずだ。それでももし、そこに居るのが難しかったり、もう居られないと思ったのなら、また戻って来ればいいさ」と言った。
あの時の松浦の一言がなければ、さおりは今頃、この町に残っていなかったかもしれない。
その松浦は、まるでリレーのバトンを繋ぐように、身体中の臓器という臓器を病が走り回り、何度も入退院を繰り返していた。
「もう、ゴールテープが見えてるんだよ」
受話器越しの松浦の声は、前と何も変わらないけれど、きっとその姿は、別人になっているのだろうと思った。
「お見舞いにも行けなくて、不義理しちゃってごめんなさい」
「いや。いいんだよ。こんな姿、見てほしくないからね」
口を開いたら、息に押し出されるように涙がこぼれてきそうで、さおりは何も言えなかった。
「でもね、最後にちょっと頑張ってみたいんだ。穂高を縦走したくてね」
「えっ? 縦走って……。身体……」
「うん。妻も娘も反対してる。無理だって。でもね、無理したいんだ。最後にこの目で、あの頂から見る朝日を見たいんだよ」
その気持ちはわかる。
穂高の頂から見る朝日は、さおりにとっても特別なものだ。
あの朝日を初めて見た時、さおりは思った。父は後悔しなかったのだろうかと。
納戸の奥に押し込んでおきながらも、決して捨てることのできなかった山道具同様、心の奥にしまって蓋を閉めた山への思いは、消えることはなかったはずだ。
見せてあげたかった。
自分で開けられないその蓋を代わりに開いてあげたかった。
もう少し父が長生きしていれば。もう少し早く私が山登りを始めていれば。
それはずっと、さおりの後悔になった。
「そっか……。うん。いいですよね、あの朝日は」
「うん、そうなんだ。でね、あなたにガイドしてほしいんだよ」
「えっ。私、そんな……」
「できるよ。そんな難しくないコースだし。僕、体力なくなっちゃったから、一日に長い時間歩けないんだよ」
「具体的には?」
「全部で六日間のコースを考えてるの」
「六日! 穂高縦走ですよね? どこ歩くんですか?」
縦走と言えど、普通、穂高だけならそんなに長い日程はいらない。
コースにもよるが、通常、長くても三、四日で行くのが慣例だった。
タイミング次第ではあるものの、山ではそんなに長い時間、好天を保つことが難しい。悪天候はリスクを増やす。特に高山は。短期決戦。それが山の原則だ。
「ふっ。長すぎるよね。でも、情けないことに今の僕は、一日で歩けるのは三時間くらいが限度なの。まず上高地から横尾でしょ。そして涸沢。三日目はそこから北穂に上がる。四日目が北穂山荘から涸沢岳経由して穂高岳山荘。五日目に奥穂、前穂登って、岳沢へ下りる。最後の日は上高地に下りるだけ。五日目だけ五時間くらいかな。全部小屋泊まり。詳細は、今度メールで送るね。考えといて」
さおりは、頭の中でシュミレーションした。
確かにそれなら、そんなに難しくはないかもしれない。ただそれだけの日数、好天を確保できるのは、梅雨明け十日くらいだ。でもその時期、穂高の稜線にはまだ雪が残っている可能性もある。いずれにせよ、全身を癌細胞に冒された松浦が、六日間も山に籠れることが果たして可能なのだろうか。そんな松浦を支えることが、さおりにできるのだろうか。
「でも僕はね、あなたがガイドしないのなら、行かない。あなたと僕の雑誌の読者と行きたいの。ごめんね。わがまま言って」
断ることはできなかった。もし断ったら、さおりはまた後悔する。だから、最近は更年期の諸症状に悩み、ロングコースをガイドすることを断っていたけれど、今回ばかりは引き受けたのだ。
【第八話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第七話、いかがでしたでしょう。
さおりの「今」に繋がる道が見えてきました。終わってしまった出来事に、そして非常な現実に対する、檻のようにたまった後悔や、本当はこうしたかった、こうなりなかったという思い。それらがさおりを動かした瞬間が目に見えるようです。この判断、どうなるのか? 次回もどうぞお楽しみに。
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