
ワイキキの自転車・歩行者専用道路標識
【第十二話】
『クプナの舞い』
左前輪のあたりがガリガリっと音を立てた。
良子はしまった、と思った。ハザードを点け、車をゆっくりと路肩に寄せ、後ろから車が来ないのを確認してドアを開け、音がした辺りを見に行った。
泥除けの下のほうに、少し擦れた跡があった。
市民センターから左折で出る時に、いつもよりハンドルを切るタイミングがずれて、歩道と車道の境目にある縁石にぶつけてしまった。
このくらいの擦れなら、縁石のほうにも大して被害はないと思ったが、念のために点検した。白い線が跡になって少し残っていたけれど、石そのものに欠けや歪みはなかった。車も修理するほどではなさそうだ。
それにしても……。
縁石に引っ掛けるなんて、我ながら運転の腕も落ちたもんだ、と良子は思った。
あまりに落胆したので、つい夫に話したら、「ちゃんと確認しないからだ」と詰られ、心の中で舌打ちした。
(そうだった。この男に話してもすっきりなんてしないのに)
確認なら当然している。確認せずに道路に飛び出すほど、無鉄砲な性格でも年齢でもない。
「なら足りないんだな」と夫は鼻で笑った。
そんな態度のこの男だって、先日蕎麦屋でバックで駐車する際、店の幟に右後方をひっかけて台座ごと倒し、タイヤに幟を巻き込んで幟のポールを変形させた上に、車体に擦り傷とへこみ傷を作ったばかりなのに。
良子の場合は、運転席とは反対側だけど、夫の場合は、自分の側じゃないか。
自分の側の後ろが見えないなんて、それこそ確認が足りない以外の何物でもないのに、よくもまあ、いけしゃあしゃあと人を詰れるもんだと、良子は腹が立った。
いや。
夫のことはいい。もう諦めている。
良子が腹を立てているのは、夫の不遜な態度だけではなかった。
今日のフラダンス教室でのやり取りが、頭の中で何度もリフレインされ、その都度、体が熱くなるのが分かった。何度、怒りから目を背け、考えないようにしても、どうしても思い出してしまう。
(あんな言い方、ないと思うわ。絶対)
良子の通うフランダンス教室では、次回の発表会に備えて、揃いのドレスを新調するか、話し合っていた。
10人いるメンバーの多くが、「もう二着もあるのだから、要らない」と言った。「既に長袖と半袖があるじゃないか」と。
彼らが半袖というドレスは、濃い緑のモンステラ柄で、二種類の形がある。デコルテや腕をむき出しにしたビスチェタイプのものと、ラウンドネックで、袖にレースがあしらわれ、二の腕が隠れるものだ。メインの部分の生地は同じだが、デザインが異なる。
これらのどちらかを、メンバーは各々持っていた。
デザインの違いは、年齢や体型や在籍年数によって分けられたものではない。良子はこの教室では中堅どころで、細身の最年長だったけれど、彼女が持っているのは、露出多めのビスチェタイプのほうだった。
良子はこのドレスを着るのが苦手だった。
肩を完全に出すデザインは、ブラジャーの肩紐を外さなくてはならない。
透明のストラップに換えて対応したら、「照明に光って目立つのでダメ」と先生に言われ、頼りない糸のようなものを渡された。それをブラジャーに括り付けて肩紐にするのだという。
もっと若ければ、ピンと上を向いた張りのある乳房が、糸の力に頼らずとも自力で定位置に止まってくれる。けれど、古希を過ぎた女の乳房は、こんな頼りない糸では引っ張り上げられない。
採寸時に見栄をはって、なまじ矯正下着を着ただけに、いつも以上に盛り上がって縫製されたバスト周りの立体的な布地に、重力に逆らうことなく下方に垂れた乳が収まらない。引っ張り上げる力を失ったブラジャーは、もはやただの当て布でしかなく、乳と共に下へ下へと首を垂れる。収める肉を失った布は盛大に余り、何かの拍子にペロッとずり落ち、ともすると、ペロンとご開帳の恐れすらあった。
「おとなの色気を見せつけちゃえ。マダムは、私と同じで色白だから魅力アップよ」
ボンちゃんが茶目っ気たっぷりに言う。
ボンちゃんも良子と同じデザインのドレスを着ていた。
「私はこのドレス、好きよ」
良子より六歳下のボンちゃんは、豊満な体を揺らせてウフフと笑った。
おとなの色気。
良子にはそんなふうに思えなかった。
むき出しになったデコルテ周りの白い肌は、色気を感じるどころか、加齢による痩せのせいで弛んで張りを失い、行き場を失った皮膚が幾重にも筋や皺を刻み、白肌に一層影を落としていて、老人の肌そのものだと思えた。おまけに、振袖になった二の腕は、踊る度にブルンブルンと揺れる。
良子は、このドレスが嫌いだった。
そもそも、なんでこのデザインが私なのだ、と思った。
二年前、このクラスで初めて発表会に出ようと先生が提案した時、メンバーの多くが「人前で踊るなんて」と出場を拒んだ。
それに良子はどうしても同調できなかった。
提案してくれた先生にも悪いと思った。
先生が言うように、人前で披露することは成長を促す。その期待に応えたいとも思った。
でも一番の理由は、ただ踊りたかったからだ。
眩い光の中、スポットライトを浴びて人々の視線を一身に集め、喝采を浴びたかった。
日頃の生活の中では決して味わえない、あの瞬間が良子は好きだった。
いろいろありながらも、フラダンスを三十年以上続けてきたのは、あの非日常の一瞬があるからだ。
だから、出たがりのボンちゃんと一緒に踊ることにした。
入ったばかりの美子と睦実も巻き添えにした。良子もボンちゃんも、ここでは古株というわけではないけれど、それぞれ別の教室を渡り歩き、フラを踊ってきた。それなりの自負もあった。だから、四人中二人がずぶの素人だとしてもなんとかなると思っていた。
でも、先生の見立ては違った。
先生の知り合いのクム級のベテラン生徒を数人、助っ人として送り込んできた。
圧倒的な技術の差。
フラ愛好家として、おそらく同じくらいの月日を過ごしてきたはずだけど、意識の違いは踊りの差となって、目の前に突き出される。
おそらく彼女たちは、意識高く踊ってきたのだろう。
腕を、首を、腰をどう使えば、嫋やかになるのか。視線をどう動かせば心を伝えられるのか。どれも、良子が長年脇に置いてきたものばかりだった。
そして、唯一の共通点といえば年代くらいの、住む町もレベルも違う即席の集団ができた。
即席ゆえの気まずい隙間を埋めるべく、凝集性を高める装置として彼女たちが持っているのと同じ衣装を買うことが求められた。
それがこのドレスだった。
若作りのボンちゃんや良子より歳下の美子と睦実は、「プリンセスラインが可愛い」と喜んだが、良子は内心ギョッとした。他のメンバーは、「デザインは可愛い」と言った。良子は「着た姿は可愛くないのね」と心の中で悪態を吐いた。
だから、その一年後に、あの時踊ることを拒否したメンバーが、形違いのドレスを作ると言った時、内心モヤモヤしたのだ。
【第十三話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第十二話、いかがでしたでしょう。習うことは楽しい。仕事自体に不満はない。「でも……」と語られる「周辺事情」があらゆる場所にあるものですが、良子のそれはフラダンスのドレス。色々なモヤモヤが噴出しそうですが、そこは外から覗き見する読者の立場、フラダンスという特殊世界に潜入できるようでワクワクしてしまいます。さてそこにどんな「潮時」が絡んでくるのか、次回もどうぞお楽しみに。
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大日向峰歩さんのnote、はじまりました!
鉄道にまつわるあれこれが書かれています。峰歩さんの「鉄子」ぶりをぜひチェック!