
ワイキキの夕暮れ
【第十八話】
そしてまた、発表会の季節が来た。
新しく入った3人のうち2人は経験者で、まるで新人とは思えない、なんなら元いたメンバーよりも上手に踊れたけれど、「迷惑をかけたくないから」と3人揃って辞退した。
入って比較的間もない涼子は、家族旅行とかち合ったと言って、出るのを見送った。
家庭の事情で2カ月休んでいた弥生も、長いブランクにすっかり自信を失くし、みんなの
「私たちも自信ないから大丈夫よ。一緒に助け合って頑張ろうよ」
という励ましにも応じず、今回は欠場することになった。
残った8人で出場することになり、レッスン後にフォーメーションの自主練習をしていたのだが、これが一向にうまくいかない。
舞台中央に整列した面々は、前奏の間に四方に散る、曲の途中で一列目と二列目が前後交代する、曲の最後に再び中央に集まり、前列の者がしゃがむ、ただそれだけのことなのに、なかなか覚えられない。
どのタイミングで自分が移動するのか、どこに行くのかを把握してないので、行くべき方向に進めず、入れ替わる時にぶつかり、右往左往する。
「もうさあ、無理よ」
「覚えられないわ」
口々に、不安なのか不満なのかわからないものを吐き出す。
「そもそも振り覚えてないのに、動きまで入ると、わけわかんない」
「ホント、それ」
「最後って、私、右向くんだっけ? 左?」
「葉月ちゃんは右」
「そっか。いつもの振りとは逆ね」
「そう。左側と右側で向き合うからね」
「どのタイミングで前に行くの?」
「だから、二回目の波のところ」
「ああ、あそこか。……で、中ちゃんの右を抜ければいいの?」
「文子さんは、左」
「え? じゃあ私は?」
「睦実さんは、良子さんとボンちゃんの間」
「そっかあ……。やばーい。マジで覚えられない」
文子が大きなため息を吐きながら、
「4人と4人だから難しいのかも。4人と5人なら、前の人の間を抜けてけばいいのだからぶつからないし、フォーメーション的にも奇数のほうがやりやすい気がする。……ねえ弥生さん、一緒にやろうよ。あなたが入ってくれると、9人になるから助かるのよ」
と、弥生に無理強いする。
踊れない代わりにせめて撮影係をするからと、スマホでみんなが踊る動画を撮っていた弥生が固まる。
「でも……。長いことお休みしてたから、振りを覚えてなくて」
「それは大丈夫だよ。私も覚えてないし。アハハ」
「でも……」
「せっかくだから、みんなで踊れたらいいよね」
「うん。間違えても、忘れてもいいのよ」
「どうせ誰も見てないしね」
「アハハ。言えてる」
睦実と美子がケラケラと笑い声を上げた。
その声がまだ消えないうちに、葉月がボソッと呟いた。
「……誰も見てない、か」
「えっ?」
「……あ、ごめん。何でもない」
「ううん。葉月ちゃん、こっちこそ、ごめん」
「誰も見てないってのは、言い過ぎだよね。ごめんごめん」
睦実と美子が慌てて取り繕う。
「ううん。そうだよね……。そうだよ。誰も見てないって思えば、踊るのも気楽だよね」
「あ、そっち? そうそう」
「そうだよ。だから弥生さんも、踊ろうよ。ねっ」
睦実が弥生の腕を引っ張る。みんなの視線が弥生に集まる。
「……そ、そうね。じゃあ、頑張ってみようかな。皆さんにご迷惑おかけしちゃうことになると思うけど。ごめんなさいね」
弥生はそう言って、弱々しく微笑んだ。
肩を窄めて不安そうな弥生の手を両手で包み、
「頑張りましょう。みんなで出れて、嬉しいわ」
と言いながら、良子の耳には、睦実の「誰も見てない」という言葉と笑い声が残り続けていた。
弥生を入れて9人で出ることになったため、フォーメーションを変更しなければならなかった。次のレッスンでその旨を伝えると、先生は最初「え、今からですか?」と難色を示したけれど、「弥生さんも出てくださったほうがいいから」と、修正してくれた。
そして、「半年ぶりなので、発表会前に人前で踊る感覚を思い出したほうがいいから」と言い、前哨戦として、来週行われる地元の鉄道会社が主催するイベントへの参加を促した。
その提案があまりにも急だったので、変更したばかりのフォーメーションを覚えていない良子たちは、例のごとく抵抗した。だが、急なフォーメーションの修正をしてくれた先生への恩義もあって出ることにした。
「鉄道会社のイベントって、あれですか? 東鉄の」
「そうです、そうです」
「あれ、廃線になっちゃうんだよね」
「えっ! 東鉄ってなくなっちゃうの?」
「いやいや。あっちのほうですよ、久代線」
「ああ。あっちね」
「あの路線は乗る人、少なかったから」
「全部?」
「さあ? ちょっと私はあまりよく知らなくて……」
自分たちが出場するイベントなのに、先生はあまり詳しくなさそうだった。
代わりに答えたのは葉月だ。
「うん。そうみたい。久代から釜坂まで」
「えー、そうなんだ……」
「うち、息子があれに乗って高校通ってたよ」
「中ちゃんのところもそう? うちも」
「えー。文子さんところも?」
「うん。よく車で駅まで送り迎えしたわ……。なくなっちゃうんだ」
「なんか、寂しいね」
「ホント。残せなかったのかしら?」
「確か、LRTにするって話、出てなかった?」
「あ、そういえば、そんなのあったような……」
「あれ、なくなったんですよ。作るのも維持するのも膨大な費用が掛かるから採算取れないって」
「そうなんだ……。詳しいね、葉月ちゃん」
「葉月ちゃんは、鉄子だもんね」
「そうなの?」
「いや、まあ……」
「へえ。そうだったんだあ。弥生さんは葉月ちゃんが鉄道好きって知ってたの?」
「うちの孫も電車好きなのよ。前に、孫に言われた何かがよくわからなくて、葉月ちゃんに教えてもらったことがあったから」
「ふうん。ところでイベントって、どこでやるんだろ。知ってる? 葉月ちゃん」
「ああ……。確か、久代駅のロータリー辺りだったと……」
「えー、何で知ってるの?」
「ポスターで見たから」
「うちらのことも出てるの?」
「ちょっと覚えてないです。子どもの歌とか、最近人気の山ガールのトークイベントがあるとは書いてあったけど、フラのことは……」
「小さい文字で書いてあったみたいです。〝地元の方によるカラオケとフラダンス〟って。皆さんの他にもワヒネクラスとかケイキちゃんにも出てもらう予定です。あとは、アイドルのミニライブとかもあるようですよ」
「へえ。……ていうか、アイドルって誰ですか? 有名な人?」
「うーん……。うちのケイキちゃんたちの話だと、ローカルアイドルっていうのかしら? が、出るみたい」
「ローカルアイドル? そんなのいるんだ……」
「でも、いろいろ面白そうだね。みんな、頑張ろうねっ!」
そんなボンちゃんの掛け声で始まった、本番前の最後の練習では、主に、フォーメーションの修正点に重きを置いた。
なんとか形になって、当日の集合時間などを確認し、先生は帰っていった。先生がいなくなった後は、いつものように、居残り自主練を30分くらいやって、それぞれ帰路についた。
イベント前夜、良子は、緑のドレスをハンガーに吊るし、スチームアイロンをかけていた。
プシューっと蒸気が出て、布の皺が消える。さっきまでの折り目はなかったかのように、繊維がほぐれて、糸があるべき場所に戻っていく。
(またこれを着なきゃいけないんだ……)
良子は気が重くなった。
(このドレスみたいに、私の皺もアイロンで伸ばせたらいいのに)
良子はそんなことをふと思い、幼稚なその思いつきに冷笑した。
どれだけ服に跳ね返されても、どれだけくよくよしても、踊りたければ着るしかない。
あと10回、新しいドレスが欲しいと言えば、あの中の誰かが根負けして、良子側に付いてくれるかもしれない。そうなる前に、もっと毛嫌いされて、居場所を失う可能性もあるけれど。
ふうっと溜息を吐いたら、ゴルフ雑誌を見ていた夫が顔を上げた。
「なに溜息吐いてるんだ。好きで勝手に踊ってるくせに。誰も頼んでないぞ」
「わかってるわよ」
30年間フラを習ってきて、何度も舞台に上がったけれど、夫は一度たりとも観に来てくれたことがなかった。
習いたての頃は、家で練習していると「ほお……」と見てくれたこともあったけれど、今じゃ、目の端にさえ捉えようとしない。
別に期待もしていない。
自分の妻にまとわりつく、知らない男の舐めるような視線を、この夫は何とも思わないのだろう。知らないでいるがいい。
「いつまでも皺取りしてないで、早く風呂入って寝たほうがいいんじゃないか。隈できるぞ」
「もう寝るわよ」
「まあ、婆さんたちのフラダンスなんて、どうせ誰も見てないだろうけどな」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
ふと足元を見ると、スチームアイロンが畳の上に転がり、注ぎ口から中の水がこぼれ、畳の上に水たまりを作っていた。
「お前っ! 何してるんだ! やけどしなかったか?」
夫が大声で良子を𠮟りつけ、腕を掴んで風呂場へ連れて行った。
「靴下脱げ。足、出せ」
夫は良子の両足にシャワーで冷水をかけた。
熱いのか冷たいのかわからない。感覚がなかった。
やがて、足の指に冷たさの感覚が戻ってくると、記憶も蘇ってきた。
夫の放言を聞いた良子は、次の瞬間、持っていたスチームアイロンを畳に叩きつけたのだ。
アイロンはバウンドし、良子の右足の指に当たって転がった。
感覚と記憶が戻ってくると、痛みもやって来た。
「……痛い」
「馬鹿だな。ホントにお前は馬鹿だ」
シャワーから流れ出る冷水を浴びながら、良子は泣いた。
【第十九話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第十八話・『クプナの舞い』ラスト、いかがでしたでしょう。じわじわと存在を示しながらも突然降ってきた「潮時」でした。フラダンス教室の不協和音に始まり、自分自身の老いともようやく向き合いつつあった良子の心に決定的な穴を開けたのは、「誰も見ていない」のでは? という認識。この先どうするのか、には可能ないくつもの答えがありますが、この穴が潮時、だったのですね。次回は「クプナの舞い」を少し振り返りつつあれこれ考察する、好評心理学エッセイ『心を紡いで言葉にすれば』をお届けします。どうぞお楽しみに。
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