【第二十一話】
「ところで肝心の本人、まだ来てないの? 遅くない? 有田さん、何か聞いてる?」
松坂が事務助手の有田に尋ねた。
「ああ、さっき電話があって、東鉄が止まってて遅れるって」
「あ、そうなんだ」
「あの人、どこから通ってるの?」
山本が尋ね、泉が答える。
「千曲のほうじゃなかった?」
「結構遠いんだね。ここまで1時間くらいかかる?」
再び松坂が尋ね、泉が答える。
「電車だとそれぐらいじゃないですか」
「電車で来てるんだ。車じゃないんだね」
「だってそれは無理でしょう。あの人、いくつよ」
「だから60で国立定年して、うち来て8年だったら……68」
「それぐらいでちゃんと運転してる人もいるとは思うけど、あの人は、無理じゃない?」
「確かに。集団登校の子どもの列とかに突っ込むタイプ?」
「いやいや、鈴木先生。さすがにそれは偏見だって」
松坂に釘を差されて、鈴木は少しバツの悪そうな顔をした。
そんなやりとりを見て、斉藤が続けた。
「あの人がどうかはわからないけど、もしそうなったら確実に報道されますね。〝大学教授、小学生はねる〟って。間違いなく、入学者激減です」
「アドミッション委員がせっかくいろいろ考えて入学者を増やそうとしてるのに」
斉藤が深く頷く。
「よかったですよね。電車通勤してくれてて」
「ホントホント」
「あれ? じゃ、今日来れないの?」
松坂が再び、有田に尋ねた。
「いや。遅れてくるとは仰ってましたけど、休むとは仰ってなかったです」
「そっか……。電車は動いてるの?」
もう一人の事務助手の益子がパソコンで調べて言った。
「まだ動いてないみたいです。田辺先生に電話してみましょうか?」
「いや、いい。今日の科会どうします? 別にあの人いなくても問題ないんだけど、勝手に決めたら後が面倒ですよね?」
「来週、全部ぶち壊しますよね……」
「プライド高いからね。自分抜きで決められるの、嫌なんだろうね」
「どうせ聞いてないくせにね」
「じゃあどうします? 延期にします?」
「どうしても今日中に決めなきゃいけない議題、ある?」
松坂の問いかけに、コミュニティ委員の鈴木が手を挙げた。
「先週話した産官学絡みで一つあります。学科から案を出さなきゃいけなくて。別にそれで決まるわけじゃないんですけど、こんなのだったらうちでもできますよ、的なのが欲しいらしくて」
「いつ締切?」
「来週の水曜の午後に委員会があるので、その時までに」
「それ、来週でいい感じ?」
「えっと……。午前の午後でいけます?」
「うーん。じゃあさ、それぞれが鈴木先生宛てに自分のできることを最低ひとつ以上書いて来週の科会までに提出する、できれば簡単な概要も付けて。それで来週、その中から決めるのはどう?」
「わかりました。じゃそれでお願いします」
「皆さんもそれでいい?」
松坂が尋ね、銘々頷いた。
「じゃそれで。提出はメールでいい?」
「はい。後で書式を共有フォルダに入れておくんでそれ使って作成してもらえますか? 決まったら、そのまま委員会に提出します」
「え、まじか。メモじゃダメ?」
「書式、使ってください」
「めんどくさいな」
松坂が抵抗を示し、山本がやんわり制した。
「でも仕方ないわよ。科会の後すぐお昼でしょ。科会がいつも延長するからろくに時間もなく食べ終わったら3限の基礎ゼミやって、そのすぐ後だもん、委員会。それくらいは協力しましょうよ」
「わかったよ。あと他に何かあります?」
「学生の件で、ちょっと相談したいことがあったんですけど」
学生委員の山本が言いかけ、周りの様子を見て、
「でもいいです。あとで松坂さん、ちょっと」
そう言って、学科長の松坂のほうを見つめた。
「ふぅん。何だろう、まあわかりました。じゃ後で。他は?」
どうしても今日じゃなきゃいけない議題以外は、見送ろうという空気が漂っていた。
「特にないです」
「そう。助手さんからは?」
その空気を助手も察し、何か言いたそうだが、言い淀んでいるようだった。山本がフォローを入れる。
「なんか学生のことだったら私が聞くし、予算関係なら松坂さんが聞くから」
助手はほっとした様子で頷いた。
「じゃ終わりでいいってことね。早く終わって良かった。いつもこうならいいのに」
畳みかけるように話した後、松坂は満足気に微笑んだ。
そんな松坂を見て、鈴木が恐る恐る尋ねた。
「田辺先生にはどうします? 産官学のこと、伝えます?」
「うーん。どうせ言っても出してこないだろうけど、言っておかないと後で面倒だから、伝えるだけ伝えておいてもらえます?」
「わかりました」
10時半過ぎに始まった科会は、11時過ぎには終わった。
八割は田辺の悪口を共有し経っていただけなので、話し合いは正味5分。
田辺が「遅くなりました」と言って教授室に入ってきたのは、その30分後だった。
事務助手以外誰もいない部屋を見て、田辺は「あれ、もう終わったの? 今日は早かったんだね」と言った。
有田と益子は頷き、「お疲れ様です。大変でしたね」と労いの言葉を続けようかと思ったけれども、その後が長くなって昼休憩の時間にかかるのが嫌で、言葉を呑んだ。
田辺は、自分の身に降りかかった些細な不運を娘より若い助手に愚痴って吐き出したかったけれど叶わず、気まずそうにその場を去った。
次の日のことだった。
その日、田辺は学外勤務日で、自宅で紀要の原稿を書いていた。メールの着信があったので開いてみると、専攻主任の蒲田からだった。
昨日の帰り道、学科長の松坂が自家用車を運転中に意識を失い、センターラインを超えて反対側から走ってきた路線バスにぶつかった、というのだ。
幸いにも、相手側は手前の停留所で最後の乗客が降りた後だったらしく、運転手のむち打ちと、かすり傷で済んだ。
だが松坂は、どうやら運転中に脳梗塞を起こしていたらしく、今も集中治療室に入っているということだった。
事故の外傷よりもそちらのほうが重症で、予断を許さない状況だった。
学科としては、一日も早い松坂の回復を願うとともに、たとえ意識が戻ったとしても、容易に大学に戻って来れるとは思えないので、早急に役割の見直しを検討しなければならず、ついては明日緊急の科会を行う、と記されていた。
(脳梗塞か。それは大変だ。だけど入学式も終わったばかりだし、暫くの間、学科長がいなくても、何も問題などなかろう……)
弥生が入れてくれた珈琲を飲みながら、田辺はどこか他人事のように考えていた。まさかそれが、自分に降りかかる火の粉になろうとは想像だにしていなかった。
【第二十二話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第二十一話、いかがでしたでしょう。車の運転適性に問題があるのは田辺センセイだけではなかったようで……私、田辺は自分の置かれている状況のまずさに薄々勘づいているんだろうなと思っていたのですが、みなさまどうでしょうか。全然気づいていない、どころか予想を遥かに超えるのんきぶり! これは間違いなく事件が起こりそうです。次回もどうぞお楽しみに。
作者へのメッセージ、「ホテル暴風雨」へのご意見、ご感想などはこちらのメールフォームにてお待ちしております。