
【第二十五話】
大学から田辺宛てに手紙が届いたのは、その2週間後だった。
封を開けた田辺は、ざっと目を通すと雑に折り畳み、封筒に戻した。
そして弥生に、研究室に残してきた私物を片付けるのを手伝うよう言った。
「私が行くんですか? 大学に? お父さんが一人で行けばいいじゃないですか」
「一人だと時間がかかるから」
「いつまでに片付けろとか、言われてるんですか?」
「そういうわけじゃないが……」
「だったら、ゆっくりやらせてもらったらいいじゃないですか」
「……まあでも、最後に挨拶くらいはしていいだろう?」
「私が? 今まで一度もお会いしたことないのに? 州大を辞める時はそんなこと、しなかったですよ」
「そうだったか?」
「そうですよ。あなた、来なくていいって言ったから。それとも、今の大学の人とそんなに親しくされてたんですか? とてもそうは思えないけど……」
田辺は気まずかった。
勢いで「辞める」とは言ったものの、実際に辞めることになるとは思っていなかった。
専攻主任の仕事はしたくなかった。これまでだって、やりたくないものを下に押し付けて何とかやり過ごしてこれた。だから今度もそうできると高を括っていたのだ。
それなのに、まさか本当に辞めることになるとは。こんな形で。
年度途中の突然の退職宣言は、完全に自己都合なので、退職金も満額出ることはないと宣告された。それどころか、事の次第を知っている同僚たちが辞める理由を大学に子細に報告すれば、給料を返還させられることにさえなりかねなかった。
だが彼らは、何も言わなかった。それには田辺への配慮があったわけというではなく、思いがけず厄介払いができたことへの安堵が含まれていたのだが、そのことを田辺は知らなかった。
辞める宣言をした翌週、科会で意志の確認がなされた際、蒲田は何度も助け船を出し、田辺がここに留まれるよう仕向けた。
だが田辺はそれを蹴った。まるで駄々っ子が親を試すようだった。
でも当たり前だが、蒲田は田辺の親ではない。
その日の夕方には、田辺の強い意志ということで、田辺退職の方向で一気に話が進んだ。その情報は、松坂の意識が戻ったという知らせと共に、大学内に拡散された。
引っ込みがつかなくなったのだ。
田辺はとりあえず、研究室にある大切な蔵書数冊と美音を流すスピーカー、最新性能のパソコン類を箱に詰め、着払い伝票に自宅の住所を書き、全て片が付いたら助手に発送してもらうよう頼んだ。箱に詰めながらもまだ〝なかったこと〟になるよう願った。起きたら全部夢だった。そんなおとぎ話を信じたかった。
だが、その希望は容易に打ち砕かれた。
後日、スピーカーとパソコンは、大学備品として購入したものなので送れない旨の連絡が大学から届いた。中のデータを消去して、返却しなければならない。それが先ほどの通知だった。
まともな授業も仕事もしていなかったのが幸いして、田辺が抜けた後の大学は、思っていた以上に影響がなかった。田辺を慕う学生2名が「最終講義をしてほしかった」と大学側に苦情と要望を申し出たが、教師側の自己都合なので不可能である旨を担当者が説明したら、すんなりと引き下がった。
教員の中にも、年度途中に、事故や病気で突然命を落とす者もいる。
その場合、授業の引継ぎも業務の引継ぎもなされないままだ。残りの授業をシラバスに準じて他教員がこなしていくだけ。田辺の退職もそれに準じた。
「ともかく一緒に来てくれ」
田辺は、弥生にどうしても荷物整理を手伝ってくれと言ってきかなかった。
一人で行く勇気がなかった。仕方なく、弥生は初めて夫の職場へ同行した。
研究室には、無数の蔵書が並んでいた。
「これ、全部家に送るんですか?」
弥生は途方に暮れた様子で、壁一面に配された書架の本を見つめた。
「いや。ほとんどは処分する」
「いいんですか?」
「いいんだ」
弥生は内心安堵した。
これ以上、田辺の私物がアメーバのように家を増殖せずに済むと思ったからだ。
もう読みもしない本なんて、抱えていても意味がない。
今こうして生き残って家に送られた後、それらが開かれることはあるのだろうか。そうだとすれば、いっそすべて捨ててしまえばいいのに。弥生はそんなふうにも思っていた。
「で、私は何をすれば?」
「そこにある本を紐で束ねてほしい」
「これ、処分するほうですか?」
「そうだ」
そこには、大量の古い本が積み上げられていた。
「全部?」
「ああ」
とても今日一日では終わりそうにないと弥生は思った。明日も来ることになるのだろう。
フラダンスの発表会は諦めたほうがよさそうだ。それはそれでホッとするような気もした。
「何冊ずつくらい束ねればいいですか?」
「持てるくらいで。一冊一冊が重いから、そんなにたくさんは無理だと思う」
田辺は、棚から次々に本を手にして、要るものと要らないものを選別していた。
選別は稀に時間をかけるものもあるが、ほとんどが瞬時に為されていた。弥生は、あんなに短時間で振り分けられるのは、全て内容を覚えているからだろうと思い、数十年ぶりにほんのちょっとだけ尊敬の念を抱いた。
しばらくして、束ねる紐がなくなった。
「ビニール紐の在庫はどこにあるの?」
「あっ……」
「買い置き、ないの?」
田辺は気まずそうに頷いた。
「売店で売ってるかしら?」
「そんなものはないと思う」
「じゃあ、外に出て買って来るわ。近くにコンビニかスーパーはある?」
「ない」
「じゃ、どうするの?」
「……教授室にはあると思う。助手がいるから、貰ってきてくれ」
「どこにあるの?」
「その先の渡り廊下を渡って、五階の北の端の部屋だ」
「わかった」
弥生は持参した菓子折りを手に、指定された部屋へ向かった。部屋の中からは楽しげな声が聞こえてきた。ドアをノックすると、その声がピタッと止み、中から「どうぞ」と声がした。
「失礼します」
弥生の登場に、部屋の中にいた若い女性二人と、中年の女性が固まった。
「どちら様ですか?」
「すみません。私、田辺の家内です。今日は研究室の片付けに同行させて頂いておりまして……。あのこれ、つまらないものですが、良かったら皆さんで召し上がってください」
弥生はお気に入りの洋菓子店の焼き菓子の詰め合わせを出した。
「ああ、そうでしたか。お気遣い、すみません」
奥にある大きな作業机で仕事をしていた中年女が出て来て言った。
「私は山本と申します。田辺先生と一緒にお仕事させて頂いていました。この度は急なことで……。先生もいらしてるんですか?」
「ええ」
「研究室?」
「はい。本棚の本を整理していまして。そこで、申し訳ないのですが、本を束ねる紐がなくなってしまいまして、少しお譲りいただけませんか?」
「ああ。そういうことなら……」
山本は助手に目配せし、棚から未開封のビニール紐を二束取って来させ、それを弥生に差し出した。
「すみません。お代は?」
「いいです、いいです。備品なので」
「でも、そういうわけには……」
「本当に。大丈夫です。私たちも研究室のものを処分する時に使いますし」
「……そうですか? それじゃあ、お言葉に甘えて」
弥生はそう言って、頭を下げてドアの取っ手に手をかけた。
「ちょっとお茶でもいかがですか?」
思いがけず、山本が弥生を引き留めた。
若い助手は不可解な面持ちを浮かべ、山本を見つめた。
【第二十六話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第二十五話、いかがでしたでしょう。本当の本当に、大学の職を辞すことになった田辺。妻・弥生の初めての職場訪問。どうも「授業参観」なんて言葉が浮かんでしまうような子供じみた田辺の行動ですが、弥生は何か意外なものに出会うのでしょうか? 次回もどうぞお楽しみに。
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