潮時 第三十話

【第三十話】

「……でしょ? お母さん、ラーメン、食べないよね? ずるずる啜ってみっともないから嫌だって言って」

「ああ……」

「昔から、蕎麦やうどんと何が違うんだろうって思ってたけど、ずっとそうだったじゃない」

「そうだな」

「でしょ? だからね、〝え、お母さん。私、ラーメンだけど、ホントに一緒でいいの?〟って訊いたのよ。でもそれでいいって」

「味覚が変わったのかも……」

「ていうか、そもそも味覚とかじゃないじゃん。〝ずるずるが嫌だ〟って言ってんだからさ。で、実際モノが出て来たら、一瞬〝えっ〟て顔したのよ。嫌そうな」

「食ったのか?」

「一口だけね。で、すぐそっぽ向いて、窓の外、ずっと見てた」

「へえ」

「だから〝お母さん、もういいの?〟って訊いたら、〝お腹いっぱいだから〟って……」

「ホントに腹いっぱいだったんじゃないのか」

「違うと思う。萌がね、その後、車でお菓子食べてたら、お母さんが〝ちょうだい〟って言うんだって。だからあげたら、止まらないらしいの。萌の食べる分がなくなるくらい。萌が〝ばあば、私の食べるの、なくなっちゃうよ〟って言っても食べ続けたらしい」

「腹いっぱいだと思ってたけど、後から急に空いてくることもあるじゃないか」

「孫のお菓子横取りするぐらい?……あのね、私の職場に、親が認知症になって介護してる人、何人かいるんだよね。その人たちが言ってたの。認知症になると、記憶がダメになるじゃない? そうするとね、外食する時にメニューを見て、そこから何か一つを選ぶ、という行為ができなくなるんだって。大体〝あなたと同じでいい〟って言うらしい」

「へえ」

「たくさんの中から何かを選ぶのって、記憶をものすごく使うんだって。選ぶって、それぞれの選択肢の特徴を覚えて、比較して、順位をつけることじゃない? 選ぶときにそれぞれの特徴と、どっちが良いか悪いかを覚えてないと、順位がつけられないんだよね。認知症になると、それが覚えられない。しかも意欲もなくなるから、選ぶこと自体面倒くさくなって、放棄する」

「そういうことは、別に認知症とかじゃなくてもあるだろう。実際、たくさんの中から選ぶのは面倒じゃないか」

「まあ、そうね。選んでる途中でわからなくなってしまうことも確かにある。〝あれ? どっちがどうだったっけ?〟って」

「ほら見ろ。たくさんありすぎると覚えられなくなるのは、別に普通なんだ」

「まあ、確かにそういう面もあるけどさ、そもそもお母さんは食べることに執着してたから、最善のものを選ぶのにいつもかなり時間かけてたじゃない。でもたぶん、その店の全部のメニューの中から選んでたわけじゃないと思うんだ。大体、食べるもの、決まってたよね。この店では、これとこれとこれの中のどれか、みたいな感じで。最初から絞り込んでおくというか。その選択肢の中から、今日の気分にマッチするものを時間かけて選ぶ、みたいな」

「そうだったかな」

「そうでした。でもこないだは、その絞り込まれた何個かのメニューから選ぶこともできなかったんだと思う」

「どうだったかな」

「ホントに何も覚えてないよね、お父さん。まあ、男なんてそんなものだろうけど。周りのこと、観察してないのよね」

「そうそう。男の人は、何にも見てないのよ。商店街の入ったところに、お豆腐屋さんあったでしょう?」

突然、二人以外の声がして、驚いて振り返ったら、そこに鶴子が立っていた。

「えっ! お母さん。いつからいたの?」

「え? 今よ」

「あ、そうなんだ。……いやあ、急に来たからびっくりした」

「だってここ、お母さんの家だもん。だから、お豆腐屋さん」

「……え? ああ、あった、あった」

「それをね、お父さんってば、覚えてないって言うの。ちょっと呆けたんじゃないかしら」

「馬鹿言うな。呆けてなんかいるもんか」

呆けたのはお前だ、と言いかけて、満男は口を噤んだ。その姿を見て、章子が少し笑った。

「ホント、周りを観察してないよね、男の人って。新一もそうよ。なんなら空も。まだ4歳だけど」

「子どもはみんな、そんなもんじゃないの?」

「いやあ。萌は違うよ。私なんかより覚えてる。むしろ子どものほうが記憶力良いからね。空も、冷蔵庫にプリンがあったとか、ゲームの宝がどこにあるかとか、そういうのはピンポイントで覚えてる。でも、全般的な観察力が、萌と空じゃ圧倒的に違うのよ」

「それは、歳の差だろう」

「ううん。萌が今の空くらいの時には、もうちゃんと覚えてた」

「そうなのね。女の子は、やっぱり育ちが早いのよ」

「ホントそう。ところでお母さん、どうしたの?」

「どうしたの?って、それはこっちの台詞よ。アンタ、何しに来たの? それこそ、子どもたちは?」

「今日は新一が見てる。ちょっと近くまで来たから、寄ってみた」

「そうなの。ゆっくりしていけるの?」

「いや。もう少ししたら帰る」

「あら。そうなの。お昼はどうするの?」

「もしかしてまだ食べてないの? お母さんたち」

「何言ってんだ。さっき食っただろう。今日は鶴亀が休みだから、コンビニで買ってきたおむすびだったけど」

「あら? そうだった? 食べたかしら?」

「お母さん、お腹空いたの?」

「ううん。そういうわけじゃないんだけど、昼時だなあと思って」

「そう。お腹空いてないなら、今はいいんじゃない」

「アンタは? 食べてきたの?」

「うん。駅前のベーカリーで。パンと珈琲。あそこのパン、意外といけるね」

「そう。そんなのあったかしら? 最近、駅なんて行かないから、わからないわ」

「嘘つけ。昨日も行っただろう」

「え? 嘘よ。私、行ってないわよ」

「編み物の糸が欲しいとか言って、駅ビルの店に行っただろ?」

「ああ。そう言えば、行ったような……。お母さん、最近、物忘れしちゃうのよ。歳なのかしらね」

「駅ビルの毛糸屋って、はまやさん? ちゃんと行けた?」

「行けるわよ。もう何年通ってると思うの」

「ふうん。また迷子にならなかった?」

「なってません。失礼しちゃう」

「だったらいいけど……。で、糸あった? 今、何編んでるの?」

「あったと思うわ。今? えっと、何だったかしら。ショールかな」

「ふうん。出来たら見せてね」

「うん。出来たらね。ところでアンタ、今日、子どもたちは?」

「……ん? だから、新一が見ててくれてるって」

「新一って?」

「夫よ、私の。やだあ、忘れちゃった?」

「そうそう、そうだった。……じゃ、お母さん、続き編むから。またね。気をつけて帰りなさい。みんなによろしく」

そう言って、鶴子は自室へ戻っていった。

「……やっぱりお母さん変じゃない? 今度、認知症の検査受けようよ。最近、新薬も保険適用されることになったし。ちょっと高いみたいだけど。処方してもらえるのって初期の人だけなんだって。お母さん、まだ大丈夫だと思う。進んじゃったらそれもできなくなるから、早いほうがいいよ」

【第三十一話へ続く】

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『潮時』第話、いかがでしたでしょう。鶴子さん、変です。客観的に見て誰もが変でしょう。でも、認めたくないが半分、少しずつの変化をずっと見てきたからが半分で、夫の満男さんは「ちょっとした物忘れ」と思いたい。でも娘・章子の介入で認知症の検査を受けることになりそう。さてこのお話、鶴子さんの認知症がらみの「潮時」に帰着するのでしょうか? 次回もどうぞお楽しみに。

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