
【第三十一話】
病院は章子が選んだ。
満男たちの住む町の駅からバスで20分のところにある総合病院だった。
章子が予約を取り、初診の日は、章子が家まで来て、満男の車を章子が運転して行った。
鶴子は、「どうしたの? 誰か、どこか悪いの?」と言って、まるで他人事だった。
「お前の頭の検査だ」とも言えず騙すみたいになって、満男は心苦しく、答えることができなかった。
章子は運転しながら、
「うん。お父さんもお母さんも歳とってきたからさ。そろそろあちこち悪くなってくるでしょ。最近ちゃんと検査とか、受けてるの?」
と言った。
「検査ねえ…。受けてるわよ。ね、お父さん」
「市の健診くらいかなあ。今年は、母さんは〝どこも悪くない〟ってサボったけどな」
「そうだった? そんな……サボったりなんかしてないわよ」
「まあでも、とにかくさ、お母さんも一度、ちゃんと検査しておこうよ。病気になってからじゃ遅いんだしさ」
「お母さん、病院ってあんまり好きじゃないの」
「病院好きな人は、いないよ」
「まあ、そうだけど……」
駅まで歩き、そこからバスで行くとなると、家からは大体40分ほどかかる道のりが、車だと15分で着いた。
「やっぱり車は便利だなあ。圧倒的に早いもんな」
「あれ? お父さん、この病院、来たことあるの?」
「ああ。前に白内障の手術をしたことがある」
「そういやそんなこと言ってたね。あれって、ここだったんだ」
「ああ。手術した後、次の日から運転できると聞いてたけど、見え方がかなり変わっちゃったから怖くて、俺は運転できなかったんだ」
「そうなんだ」
「その時は駅まで歩いてバスに乗ってな。時間かかるんだよ」
「まあ、そうだよね」
「車はいいなあ。やっぱり」
「今は運転して、大丈夫なの?」
「今はもう平気だ。むしろ前より良く見えるから、全く問題ない」
「へえ」
総合受付で、章子は今日の診察の目的を用紙に記入し、三人で並んでベンチに座り、呼ばれるのを待った。
「月野鶴子さん」
「はい。私は娘です。鶴子はこちら。私が代わりに対応します」
「わかりました。では……」
担当者が、章子に、予約したメモリー外来の場所を伝えていた。
「やだ。診てもらうの、私なの? 私、どこも悪くないわよ」
鶴子は明らかに不安そうだ。
浅く腰掛け直したかと思えば、鞄の柄をぎゅっと握り、いつでも逃げ出せるような態勢だった。
「その後、俺も診てもらうから。先にお前なんだ」
「嫌だ。お父さん、先にいってよ。私、後でいい」
「そんなわけにはいかんだろう。病院の都合なんだから」
「だって……」
「さあ、行くよ。三階だって」
「何科? お母さん、嫌よ。どこも悪くないのに……」
「だから、悪くないけど診てもらうの。健診だから。ほら、行くよ」
そう言って章子は鶴子の腕をぎゅっと掴んだ。
もう片方の手で、背中から肩に手を回し、エスカレーターに乗り込む。
その後ろを、トボトボと満男はついていった。死刑台の階段を上っていくような心持ちになりながら。
その日は精神科医の問診と血液検査を受け、その二週間後、脳血流とMRIと脳波の検査を受けた。
午前の二つの検査が終わり、病院の敷地内にある中華料理屋で、検査の合間に昼食を食べた。章子は「病院の割にはなかなかいける」と言ったが、満男も鶴子も喉を通らなかった。
午後からは、頭に20個ほどの電極をつけて脳波を測定する検査が行われた。
1時間後、全てが終わって検査室から出てきた鶴子は、心底ぐったりし、伝導性をよくするためのジェルを頭につけられたせいもあり、さながら〝髪洗い婆〟という妖怪のようで、満男はギョッとした。
そして、そんなふうにしてしまったのは自分たちだと、鶴子に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
章子も、鶴子のそんな姿に言葉を失い、検査が終わって家に帰るや否や、風呂を沸かし、鶴子の頭を洗った。
「お母さん、今、湯船にいる。温かいお湯にゆっくり浸かって緊張が解けたらきっとお腹空くと思うから、私、ちょっと駅前で夕飯の買い物してくるね」
服のまま風呂から出てきた章子は、そう言って出かけて行った。残された満男は、神経を研ぎ澄まし、風呂場にいる鶴子の気配を全身で感じていた。
ふと鶴子の声がしたような気がして様子を見に行くと、湯船に肩まで浸かった鶴子が、昔流行った歌を口ずさんでいた。
「何? お父さん」
「いや。何だ、お前。歌なんて歌って」
「私だって歌くらい歌うわよ。何しに来たの?」
「心配になったから」
「何が?」
「お前が」
「なんで?」
「なんでって……。検査大変だったろう? 疲れてぶっ倒れてるんじゃないかと思って」
「検査? 誰の?」
「お前の」
「私の? 何の検査? ……私、そんなの知らないわよ」
「えっ……」
「もう。そんなわけわかんないこと言ってないで、そこ閉めてよ」
満男は、鶴子が泣いているような気がしたのだ。泣き声をごまかそうとして歌を歌っているのだと。
でもそこに居たのは、自分の置かれてる状況にも、自分の記憶の頼りなさにも、自分の織り重なった感情にも思惑うことなく、温かい湯の中で寛いでいる老婆だった。
検査から二週間後、医師から結果を聞き、鶴子はアルツハイマー型認知症であることを正式に告げられた。章子も満男も、その宣告に「やっぱり」と思ったが、納得してどこか晴れ晴れとした表情を浮かべる章子とは対照的に、満男の顔は曇っていた。そこには、落胆と諦めと覚悟が滲んでいた。
章子が期待した新薬は、実際に処方している病院がかなり限定的で、満男たちの住むところからでは、都内2つのターミナル駅で二度電車を乗り換えて、片道1時間以上かかるところしかなかった。加えて、保険適用したとはいえ、予想を超える費用の高さで、年金生活の満男たちには手の届く金額でもなかった。
せめて半年とか一年というように、ある程度の目処が付くのであれば、食費を削ったり、貯金を切り崩したりして、なんとか捻出できなくもないが、あと何年続けなければならないのかもわからないような状態で、一度乗ったら二度と降りられない舟に乗るかのようなそれに、おいそれと手を出すわけにはいかなかった。
現時点で普通に処方される既存薬も、この新薬ほどではないものの、これ以上の病気の進行を遅らせる効果のあるものらしく、それならば、検査を受けたこの病院へ2カ月に一度来ればよいだけなので、章子は満男と相談し、既存薬での治療を始めることにした。
「このほうが現実的ではあるのよね」
「2週間に一回、都内の病院に、母さん連れて電車で通うなんて無理だよ」
「そうね。それも、飲み薬とかじゃなくて、点滴で一時間かかるなんて……。私もそんなにしょっちゅう、お休み取れないし」
「それは俺が連れて行くから大丈夫だが、年間で400万近くかかるとなると、難しいなあ。この先、例えば施設に入るにしても、それなりに金はかかるだろうし」
「一割負担でその金額ってね。やっぱり高いよね。一定金額を超えたら戻ってくるみたいだけど。それにしても、ねえ……」
「まあ、新薬にこだわらなくてもいいだろう。お前がせっかく考えてくれたのに、悪いけど」
「いいのよ。この薬だって悪くはないんだろうから」
「2か月後ということは、今、5月だから、次の診察は……7月か」
「そう。今、次の予約入れてきた。7月10日だって。また私、迎えに来るから一緒に行こう」
「ここだったら大丈夫だよ。俺が運転して連れてくよ」
「ダメダメ。それくらいの頻度なら、休めるから大丈夫。来ます」
【第三十二話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第三十一話、いかがでしたでしょう。ついにアルツハイマー型認知症との診断を下された鶴子。夫の満男と娘の章子、妻への思いと母への思い。それぞれ違って、お互いに理解はできないのかもしれない。けれどなぜかどちらも胸に沁みます。満男・theドライビング・ミスター・フルムーンに運転をさせまいとする章子。しかし、しちゃうんでしょうね、運転……次回もどうぞお楽しみに。
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