
【第三十二話】
章子はそう言って、7月の診察のときにもやって来た。
その間も鶴子は呆けたりまともだったりで、毎日服用する薬の効果とやらは、満男には実感できなかった。
放っておくと鶴子は薬を飲み忘れることも度々で、それも少なからず影響はあるのかもしれない。なので満男は、毎朝、自分が高血圧の薬を飲むときに、必ず鶴子にも服用させるようにした。
薬を出す度、鶴子は毎回「これ、何の薬?」と尋ねた。
その都度、「コレステロールの薬だ」と嘘を吐いた。
自分を認知症だと思っていない鶴子に〝ボケの薬〟とは言えなかった。
7月の診察の帰り、章子が言った。
「次は9月ね。中旬は仕事が立て込んでで、下旬にしてもらった。空いてるのが土曜しかなかったから、その日にしたんだけど、いいよね? また私、家に迎えに行くからね」
「いいよ。でも、お前もいろいろあるだろう。仕事、休まなきゃいけないだろう? そんなに度々だと査定に関わるぞ」
「大丈夫よ、土曜だもん。もし出勤しなきゃいけなくなったとしても、介護休暇取るから。いつも頑張ってるから、その日くらいは休ませてもらう。今はちゃんとそういうのがあるの。お父さんが気にしなくて平気だからね」
「いや。でも毎回は大変だよ。土曜だし、子どもたちと過ごしなさい。道も知ってるし、父さんが母さんを連れて行くから」
「バスで行くの?」
「いや。車で」
「だから……。それが駄目だって言ってるの」
「なんでだよ。大丈夫だよ」
「お父さん、もうすぐ80だよ。何かあってからじゃ、遅いのよ」
「何もないから。大丈夫だから」
「いいから。行くからね。次は、9月29日ね。予約時間は10時」
「ああ」
「じゃあ、9時前に行く。何度も言うけど、勝手に車で行っちゃ駄目だからね」
毎日少しずつできることが増えていくのを見る子育てとは違って、できないことが増えていく介護は、見ている側に悲哀と虚無をもたらす。
次の通院までの2カ月の間にも、鶴子は相変わらず頓珍漢なことを言ったりしたりして、満男を落胆させた。
実際、鶴子のできないことが増えていく度に、満男の負担も増える。悲しみに浸ってる場合ではない。生活があるのだ。
(そのうち、下の世話とかも、俺がするのかな。できるかな、俺に)
章子を育てている時も、うんちやおしっこと言う度に、鶴子に投げてきた。
忙しく働く鶴子に、オムツくらい替えてくれ、と言われても、それは母親の仕事とばかりに頑としてやらなかった。
(できないなあ。……でも、やらなきゃいけないんだろうな)
満男は、暗い森に一人放置された子どもみたいに途方に暮れ、絶望の中にいた。
三度目の通院の前日、いつものように、『鶴亀いなり』を食べながら昼のニュースを見ていたら、鶴子が言った。
「あら。これ、美味しいわね。どこの?」
「いつものだよ。鶴亀」
「鶴亀って言うの? 私と同じ鶴なのね。へえ……」
「いつも食ってるだろう? 何、感心してるんだよ」
「あら私、初めて食べたわよ。そんな店、知らないもの。最近できたの?」
おいしそうに稲荷ずしを頬張る鶴子の横顔を見ながら、満男は、(またか……)と思った。
またひとつ、手放したものが増えたのか、と。
「あら。十五夜? 明日、十五夜なの? じゃあ9月15日なのね」
突然何を言うのかと思ったら、アナウンサーが、明日の中秋の名月の準備をする、どこかの寺の風景を紹介していた。
「明日は29日だ」
「あら、十五夜って、15日だからじゃないの?」
「そうだ。旧暦で毎月15日の月のことだ」
「そうなの? でも変よ。29日なのに十五夜って」
「ああ、中秋の名月だろ? それは、いろいろ変わるんだよ。満月とも限らないらしいし」
「そうなの? ふうん……。お月見といえば、子どもの頃、お供えしたわ。お団子と薄を縁側に飾ってね」
「昔の家では、よくそうやって月見したよな」
「信州には月がとっても綺麗なところがあるの。姥捨て山ってあるでしょう? 姥捨は、山の中ほどに駅があるんだけど、駅から見る夜景がね、ホントに綺麗なの。足元に広がる善光寺平に家々の明かりが灯って、光の湖みたいになるの。その平にめがけて下がっていく山の斜面のところに、小さな棚田がたくさん。みんな形が違ってね。一つとして同じものはない。鏡台山っていう山の端から月が上がって来るんだけど、その小さな棚田に幾つも月が映り込むの。まるで、闇夜に浮かぶ水玉みたいなの。〝田毎の月〟って言うんだけどね。明日は中秋の名月なのね。久しぶりに見てみたいわねえ」
「……行ってみるか?」
「えっ。いいの? 行きたいわ」
「よし。明日朝から行こう。そうと決まったら準備しなきゃな」
「準備って何よ。そんなの要らないわよ。すぐそこじゃないの」
「すぐってこともないだろう。ここは川崎なんだからさ」
「そうなの? ふうん」
「天気はどうだろうな?」
「うーん。晴れって言ってる」
「そうか、わかった」
その日は、雲ひとつない青空だった。
朝早く、車に一泊分の衣類と防寒用の上着を積み、鶴子を乗せた。
「シートベルトするのが面倒くさいから、助手席には座りたくない」と言う鶴子をなんとか説得して、助手席に座らせてシートベルトを締めた。
「どこ行くの? なんか、おおげさね」
「月、見に行くんだよ。昨日、言ってたじゃないか」
「お月様? 今頃から? まだ朝よ」
「早めに移動しておくんだよ。いろいろ寄り道しながら行けばいいじゃないか。夜になってから移動したんじゃ、大変だからな」
「ふうん……。ま、いいわ。なんか、楽しそうね」
鶴子はそう言って、オリジナルの鼻歌を歌い出した。
ゆっくりもしていられない。章子が来る前に家を出なければ。
満男は玄関の鍵を締め、カーナビに昨日調べた住所を打ち込み、ETCカードが挿入されているのを確認して、出発した。
【第三十三話へ続く】
(作:大日向峰歩)
※2025年も間もなく終わります。今年も読みに来てくださってありがとうございました。
皆様にとって、2026年がよき一年になりますよう。 大日向 峰歩
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第話、いかがでしたでしょう。次々となじみのあるはずの日常の記憶を手放してゆく鶴子が詳細に語る美しい月の思い出。「行こう」と満男に決意させるに十分な言葉でした。ですが車の運転を娘に止められている満男。どうなる、二人のドライブ!?
というところで今年の更新は最後、来年5日にこの続きからスタートします。本年もご愛読、誠にありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
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