
【第三十三話】
昨日、信州へ行こうと決めてから、久しぶりに運転してディーラーのところへ行った。
そこで、運転支援システムのやり方を教わってきたのだ。
「どうしたんですか? 急に」
「いや。昔の車には、こういうのついてなかっただろう? だから、イマイチ使い方がわからないんだよ。でも、せっかく便利なものがついてるんだったら、知っておいたほうがいいな、と思って」
「運転するんですか?」
車を売っておいて、「運転するんですか?」とはふざけたことを訊くものだと、満男は内心イラっとしたが、表面上は努めて平静を装った。
「まあね。女房を病院に連れて行かなきゃいけないこともあってね」
「えっ? でもそれは、娘さんが連れてってくれるんじゃ?」
「まあ、そうなんだけど……。でも、世話になってばかりもいられないだろう? まだ子どもも小さいし、急に熱出すこともあるからさ」
「ああ、確かに。うちにも小さいのがいるんですけど、突然熱出すんですよね、あいつら」
「まあ、子どもってのは、そんなもんだ」
「そうなんですよね。……なるほど。じゃ、いろいろ説明しますね」
運転支援システムは、使ってみると意外と便利なことが分かった。
とりわけ高速での運転では、使う価値のあることを学んだ。
満男は、まず、長いこと行っていない鶴子の両親の墓参りをすることにした。
そこは、鶴子の実家の近くにあった。
鶴子の実家は、安曇野と大町の間くらいにある山の中にある一軒家で、既に住む人もおらず、野生動物の棲み処と化していた。
数年前に訪れた際、鶴子は「こんな姿になってるのを、もう見たくない」と言って、付近の散策を早々に切り上げ、車に乗り込んでしまった。
運転支援システムの、クルーズコントロール機能と自動追随機能を用いて、時速80キロ、車間距離の目盛りを3つに設定し、満男の車は、順調に中央道をひた走った。
後部座席に積んだ荷物の中にある、満男と鶴子の携帯が代わる代わる何度か鳴って、その度に、集中が切れそうになり、ヒヤッとした。
おそらく、章子がかけてきているのだろう。だから、途中のトイレ休憩でサービスエリアに立ち寄った際、電源を切った。運転に集中するために。
サービスエリアでは、男女別のトイレに入ると、また鶴子がどこかへ行ってしまったらまずいので、身障者用のトイレに一緒に入った。
「なんで一緒に入るの? 私、嫌よ」
鶴子は抵抗を示したが、満男は「俺、ちょっと腰痛いんだよ。手伝ってくれよ」と嘘を吐いて、渋々受け入れてもらった。
鶴子は、「お父さんのを手伝うのはいいけど、私は何でもないんだから。普通に女性用トイレで用を足したいわ」と言ったが、「ついでじゃないか。時間の短縮にもなるし。女子トイレ、混んでるみたいだぞ」と言って、なんとか順番に用を足すことに成功した。
梓川のサービスエリアで、少し早めの昼ごはんを食べた。
「やっぱり、信州のお蕎麦は美味しいわね」
鶴子は上機嫌だった。
「今日は常念もよく見えるわね。いい天気」
レストランの窓から、北アルプスの山並みが綺麗に見えていた。
目指す墓地は、この先の安曇野インターで下り、いくつかの県道を乗り継いで、山道へ入っていく。
(あそこからは道なりのはずだけど……)
だが満男には、その記憶がない。
というのも、いつも麓で、
「ここからは、私が運転します。あなたの運転じゃ無理よ。道狭いし。曲がりくねってるし。慣れてない人は無理」
と言って、鶴子自身が運転したからだ。
実際、昔はまだ舗装もされていない砂利道で、ガタガタしながら、時に車の底をガリガリ擦りながら通った。今はかろうじて舗装はされているものの、限界集落ゆえ、所々アスファルトがひび割れ、落石が路肩に散らばり、木の枝が散乱していた。
その道を、ゆっくりと確かめるように上っていく。
「随分、道が荒れてるわねえ」
助手席の鶴子は、背筋を伸ばして、窓から崖を覗き込んだりしている。
「怖いわね、落ちそうで」
「どこ走ってるか、わかるか?」
「わかるわよ。家だもん」
「そうか……。なら、教えてくれ。この先、まっすぐでいいのか?」
「うん。道なり」
「そうか」
人は、歳を取るといろんなことを忘れていくけれど、「もう見たくない」と言って拒んでも、子どもの頃に住んでいた場所は忘れないものなのだろう。
「もしかして、家に行くの? でも、もう誰も住んでないからどうなってるか、わからないわよ」
鶴子が、道の先を見つめながら言う。
「いや。家じゃなくて、墓に行こうと思ってる。随分行ってないだろう?」
「そう……。でも、お花とかお線香とか、持ってきた?」
「いや」
「掃除もしてないから、箒とか雑巾とかもいるわよ」
「大丈夫だよ。その辺の枝と草で叩けばいいよ」
「なにそれ。罰あたるから」
鶴子はフフっと笑った。瞬間、若い頃の鶴子が横にいるような錯覚に陥った。
墓はかなり荒れていた。
満男は、その辺の草と枝を使って、墓石についた落ち葉や蜘蛛の巣を払い落とした。
鶴子は、足元の雑草を手際よく抜き、持っていたハンカチをペットボトルの水で濡らし、墓石を拭いた。
「せめてお花だけでも、持ってきたらよかったのに」
そう言って鶴子は、辺りをきょろきょろ見回したかと思うと、墓石のすぐ横に咲いている彼岸花にペットボトルの水を少しかけた。
「それ、ちぎって入れたらいいじゃないか?」
「これ? ダメよ。彼岸花には毒があるから。素手では触らないの」
「そういうもんか?」
「毒があるから、田んぼやお墓の周りにあるの。雑草が生えないように、動物たちに荒らされないように、ってね」
「へえ」
「ちゃんとしたお花をお供えしたかったけど、仕方ないわ。これで我慢してもらいましょう」
そう言って、両手を合わせて何やらぶつぶつと唱えた。
「何を報告したの?」
「ん? まあ、いろいろ」
「そうか」
「私もそろそろそっちに行きますよ、とか。最近、いろんなこと、忘れちゃって困ってるんです、とか」
「へえ……」
鶴子はそう言うと、ニコッと笑った。
その姿は若い頃の鶴子のままで、満男は、涙が込み上げてくるのを抑えるのに必死だった。
「……さあ、この後は、月を見に行くぞ」
「えっ、月? まだ早くない? お日様、あんなに高いわよ」
「いいんだ。ゆっくり行くから。途中、団子も買わなきゃな」
「ふふっ。そうね。私、みたらしがいいな」
「月見は、三色団子だろう」
「いいじゃない、好きなの食べれば」
「そうだな。じゃ団子買って、月に行くぞ」
「ふふっ。お月様に向かってドライブするのね」
「ドライビング・ミスター・フルムーンってな」
「何、それ?」
「昔、『ドライビング・ミス・デイジー』っていう映画、あったじゃないか」
「えーっと……。あ、あった! あれよね、あの人出てるやつ」
「モーガン・フリーマン?」
「そうそう。その人。あの人、素敵よね。確か……冤罪で刑務所に入れられた人が出てくる映画にも出てた」
「ああ。『ショーシャンクの空に』だろ?」
「そうそう。あれ、泣いたなあ」
「うん」
「あれ? 『ドライビング・ミス・デイジー』って、どんな話だったっけ?」
「まだ人種差別が強く残ってた戦前のアメリカが舞台で、歳取って運転ができなくなった主人公のミス・デイジーが、息子に手配された運転手を雇うんだよ。その運転手が、モーガン・フリーマンだ」
「……あ! 思い出した。そうそう。そんなんだった。何年かぶりでお兄さんに会うために、一緒に遠出するのよね。その人の運転で」
「そう」
「確か、最後は……」
そう言うと、鶴子はしばらく考え込んだ。
鶴子が思い出すことはないと思い、代わりに言葉の続きを口にしていいものか逡巡している満男に、鶴子は事も無げに告げた。
「確か主人公が、認知症になっちゃうのよね」
「ああ」
「そうそう。そうだったわ」
鶴子が思い出したこと、我が身に降りかかっているのと同じ病名を口にしたこと。意表を突かれて言葉を失った満男に向かい、鶴子は少し笑みを浮かべながら言った。
「いい映画だったわよね」
「うん」
咄嗟に相槌を打った。瞬間、頭の中でラストシーンを回想していた。
「……で、なんでミスターフルムーン?」
「だってほら。俺は、月野満男だろ?」
「あっ〝満月〟ね。フルムーン。そういや昔、あなた、そういうあだ名で呼ばれてたわね」
「うん」
突然、足元からボキッと音がした。
道に落ちた枝が、車の重みで折れたのだろう。
ガタガタ揺れる車内。ヘアピンカーブを重ねながら、二人は山道を下りていく。その道は、いつまでもどこまでも続いているかのようだった。
【第三十四話へ続く】
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『潮時』第三十三話、いかがでしたでしょう。『ドライビング・ミスター・フルムーン』のラストでした。娘の声の聞こえない場所へと二人きり、「道行」なんて言葉が出かかる切なく危険なデート。満男と鶴子がこれから歩む道からは最も遠いはずの「永遠」がそこにあるかのようです。ふたりの「潮時」は何だったんだろうと想いを馳せてしまいました。さて次回は心理学エッセイ『心を紡いで言葉にすれば』をお送りします。次次回が『潮時』三十四話となります。どうぞお楽しみに。そして今年もよろしくご愛読ください!
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