……アリエスはオオカミを毒殺した事を、今となっては、深く後悔しています。
オオカミ毒殺事件がきっかけとなり、羊村とオオカミ族との間で戦が始まり、多くの羊とオオカミが死にました。休戦が終わると、更に多くが死ぬでしょう。
羊村に古くから伝わる伝統や信仰を尊ばぬ羊村の羊たちを、アリエスは恨んでいたのですが、いざ戦が始まってみると、その凄惨さを見て自分の行いを後悔し始めたのです。
メリナ王国への亡命を手助けしてくれた羊娘と手紙のやり取りをしている内に、その羊娘は実は村長ショーンの娘だと知り、更にはアリエスに毒殺をそそのかしたのは、通商大臣のヘルメスだという事が次第に分かってきました。
ーーアリエスは自身のあまりもの愚かさに、愕然とします。
あの夜、金貨50枚を持って現れた羊は、神の使いでもなんでもなく、通報大臣のヘルメスだったのでした。
どうやらヘルメスは何らかの目的があって、この戦を企てたようですが、アリエスは完全にその計画に利用されていたのです。
「ソールも、ヘルメスに利用されていたのね……。手紙には、戦争が始まったのは自分のせいだと書いてあった。あの娘は夜な夜な悪夢にうなされているのね。まだ若いのに気の毒に」
不憫に思ったアリエスは、ソールと文通を重ねるうちに、ソールがオオカミの少年と恋に落ちたのを知ります。
ーー羊がオオカミに恋をする ! ソールの告白にアリエスは最初戸惑いますが、しばらくして、
羊族に伝わる古い神話を思い出します。
異端思想として、今では語り継ぎを禁止される神話は、このような物語です___
……最初、この世は何ひとつとして存在せぬ冥界しかありませんでした。
そこは、唯一の絶対神《無》が君臨しています。
何も無いがゆえに、争いもなく平和そのものだった冥界でしたが、あまりにも退屈になった絶対神《無》は自分の話相手になってくれる《光》を創りました。
光が生まれ、冥界は明るく照らし出され、絶対神《無》の暗い顔つきもはっきりと見えるようになります。
ーー初めのうちは《光》は《無》のよき話相手でしたが、やがて《無》のわがままと横暴さに嫌気がさして、《光》は冥界から出ていき自分の世界を創出します。
その新しき世界は『光の世界』と呼ばれ、羊たちもこの世界で生まれました。
『冥界』と『光の世界』。この世は二つに分断され、互いに干渉しつつも、適度に距離を保っていたのですが、考えの違いから争いが始まってしまいました。
争いはやがて、いつ終わるともしれぬ戦いへと発展していきます。
絶対神《無》は、冥界の守護兵として、闇に煌めく星々と月を創りました。
《光》も自分の世界を守る為、闇夜を切り裂く稲妻、闇夜を照らす火、明るく輝く太陽を創ります。
戦いは何千年、何万年と続き、その戦いの結果、この世に今まで存在しない物が産まれていきます。
『希望』『絶望』『喜び』『悲しみ』はこの頃に創られたのです。
いつ終わるとも知れぬ戦いでしたが、ある日、冥界の戦士月神が戦いの疲れを癒すため泉の側で休んでいると、そこで沐浴をしている太陽の女神を目撃します。
泉の中で光り輝く女神を見た月神は、女神に一目惚れをして、太陽の女神も勇敢で聡明な月神を好きになります。
互いに敵同士なものですから、周りの神々は二人が付き合うのに猛反対をします。
しかし幾多の困難を乗り越えようやく二人は結ばれ、そのお陰で長かった戦いは終わりを告げ、引き裂かれていた『冥界』と『光の世界』は再びひとつとなるのです………
ーーーこの神話を思い出した老巫女アリエスは、ソールとそのオオカミを結びつけるのが自分の本当の使命ではないか、と思い始めます。
「言い伝えによれば、オオカミはかつては羊だったという。もし本当にそうなら、羊とオオカミは結ばれる筈だわ。二匹を結ぶ事が出来たなら、不毛なこの戦も終わるかもしれない……」
ソールにあてた最後の手紙には、二匹を祝福したいので困った時にはいつでも来るように、と記しました。
「私はもう年老いた。二匹の若い羊とオオカミを結びつけるのが、きっと私の最後の償いなのだろう……」
とそのようにアリエスは思っているのでした。
しかしアリエスにとって、メリナ王国は決して居心地の良い所ではありません。
アリエスは、メリナ王国へ来てから一度だけメリナ王国国王に謁見をしています。
羊族に古くから伝わる目上を敬う挨拶をしながら、立派な白ヒゲを蓄えた国王、ファウヌス三世をアリエスは観察しました。
ーーアリエスは大巫女という立場上、多くの羊たちの裏も表も見てきているので、一目国王を見ると、すぐに相手が何かを企んでいるのを見てとりました。
ファウヌス三世の傍らには、彼の腹心アルゴー大公が大柄の体を揺らせながら、鋭い目つきでアリエスを睨んでいました。
『霊感』と言えるかもしれませんが、アリエスはファウヌス三世とアルゴー大公が並んで立つのを見て、この二匹が戦争の首謀者であると確信しました。
現にメリナ王国は、大量の武器を羊村に供給をしているのです。
二匹はアリエスに向かって、羊村の内情を矢継ぎ早に質問してきましたが、疑っているのを覚られぬよう、肝心な話はそらしながら、二匹に丁寧に対応をしました。
ーー羊村を裏切った以上、もはや羊村には帰れず、メリナ王国にしかアリエスの居場所はないのです。
オオカミを毒殺したのがアリエスだと、オオカミ族に知れ渡れば必ずやオオカミ族はアリエスの引き渡しを要求してくるでしょう。
もはやアリエスは完全に孤立した状態に追い込まれており、唯一の望みはソールだけでした。
あの神話を予言だと捉えるのであれば、ソールとオオカミの少年を結びつけるのが、自分の天命だとアリエスは自分を信じ込ませます。
ーー自分が今も生きているのは、その使命の為かもしれない、と。
……初夏の訪れを告げる、ジャスミンの香りが、アリエスがいる寺院の周囲にも漂っています。
夕暮れ時になりアリエスは、殆ど誰も訪れぬ小さな寺院の祭壇の前で、太陽神に祈りを捧げました。
祭壇を見上げると、少なくとも二百年は経っているであろう、太陽神が彫られた古いレリーフが見えます。
レリーフの太陽神は、温厚に微笑んでいるようにも見えれば、こちらの邪心を射抜くかのような顔つきにも見えました。
夕暮れの日差しが差し込む中、太陽神は何かを問いたげに年老いた大巫女を見下ろしています。
日が沈むのを見届けると、アリエスは小さなグラスにラム酒を注ぎ、飲み干すと床につく準備を始めました。
日が沈むと、それから太陽が昇るまでは『冥界』が夜の世界を支配しており、太陽神の影響は失せると羊たちは信じているのです。
ーーアリエスがベッドに潜り込み、ロウソクの火を消そうとしていると、誰かが寺院の扉をコンコンと叩きました。
ベッドから起き上がり、ロウソクを手に寺院の入り口まで向かい扉をゆっくりと開くと、そこには若い二匹の羊がいました。
一匹はソールです。そしてもう一匹はーーーーよく目を凝らして見れば、それは羊ではなく、羊の皮を被ったオオカミでした。
きっとこの若オオカミが例のオオカミなのでしょう。
アリエスは外を見渡し、誰もいないのを確認しながら二匹を寺院の中へと招き入れました。
ソールと、もう一匹の若オオカミは長い間歩き続けたからなのか汚れており、疲れ切っていました____
――――つづく
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