オオカミになった羊(後編54)by クレーン謙

アンドロイド・エリはここ仮想現実の世界では、まだ本当の実体がないので、その像が安定できず半透明な姿でレイに向かい合っていました。
レイは子供の頃の姿のままで、少し悲しそうな表情を浮かべ今にも消えそうな妹の姿を見ています。

「……エリ、僕は君を蘇らせる為、半生をかけてクローン技術を身につけたんだ。君の体の部位は全てキメラ族の体内に揃っている。あとは、それらを取り出し君の記憶を移植するだけなんだよ」

「兄さん、そもそも、その考えが間違っているのよ。それはつまりキメラ族を犠牲にする訳よね。兄さんが創り出した種族なのに」

レイはエリの側まで近づき肩を掴もうとしますが、まだエリには実体がない為、その手は宙を切ります。レイはエリの指摘には何も返事せず、感情を抑えるようにして言いました。

「僕は母さんが死ぬ前に約束をしたんだ。『何があってもエリを守ってみせる』ってね。僕たちは唯一の肉親なんだよ。誰かが君を傷つけたりすれば、僕は決して許しはしない──世の中は僕たちにとても冷酷だった。君が病に冒された時も、誰一人として僕らに手を差し伸べなかった。みんな口先ばかりでね。そして、世の中が悪い、政治が悪い、国が悪い、と言い争うだけで本当に困っている人を助けようとすらしない。人類はとっくの昔に人間らしさを喪失していたんだよ。だったら、もうそんな人類はいない方がいいんだ……」

エリは、今にも消え入りそうな姿で、憐れんでいるかのような顔で兄を凝視します。

「それは兄さんが誰に対しても心を閉ざしていたから、人々の気遣いに気づかなかっただけよ。兄さんは研究の事ばかりで、本当の人間を見ようともしなかった。マヤは兄さんの事を気にかけていたわ。私が死んだ後、兄さんはマヤと結婚したでしょう? でもマヤは兄さんの元を去っていった。何故だか分かる? 兄さんはマヤにも、結局心を開かなかったからよ……」

冷静な顔をしていたレイは『マヤ』という名を聞き、一瞬の事ではありますが、その表情を変えました。きっと、その頃の事が脳裏を過ぎったのでしょう。
その表情の変化をエリは逃しませんでした。エリは静かな声で言いました。

「マヤは十年前に交通事故に遭い、死んだわ。兄さんはきっと、それも知らなかったでしょうね。マヤはあんなに兄さんの事を心配していたというのに」


EMP爆弾が十発、成層圏で炸裂し、電磁パルス波が地上に降り注いだ為、世界中の電子網と電線が焼け切れました。乗用ドローンはもう空を飛ばなくなり、全ての電車も止まり、世界中のコンピューターは、ただの鉄くずと成り果てました──通信網も寸断されたので、当然の事ながらインターネットも電話も使えなくなったのです。
しかし、そのお陰で『聖なる羊たち』教団は、サイバー攻撃を仕掛ける事が出来なくなりました。

『聖なる羊たち』教団が所有する島、その地下深くに設置されたコンピューターが、もしかしたら世界で唯一稼働しているコンピューターなのかもしれません。
地下には発電施設も併設されているので、コンピューターには常に電源が供給されています。
コンピューターとは言っても、レイが作ったこのコンピューターは父の設計思想を基にして『バイオチップス』で作られており、限りなく人間の脳に近い構造をしています。
その内部には、空間の広がりがほぼ無限と言ってもいい仮想現実が存在していて、そこには本当の生命をもった生き物たちが生きています。

電磁シールドで囲われたその部屋には、自動小銃を手にした『聖なる羊たち』の信者が一人、警護のために居ました。しかし、もはやトランシーバーさえ使えなくなったので、地上の様子が全く伺えません。島の周囲には国連軍が包囲しているので、依然として緊迫した状況ではある筈です。
信者は不安を鎮めるため、教団では固く禁止されているタバコを胸ポケットから取り出し、口に咥えます。

火をつけようとして後ろに振り向くと、そこに何の気配も発する事なく、潜水服を着た者たちが五人いつの間にか居ました。一人はサイレンサー銃を手にして、銃口を信者に向けています。
信者は咥えていたタバコを下に落とし、咄嗟に自動小銃を構えようとしますが、その直前、サイレンサー銃を手にした男が引き金を引きました。

ブシュッ、と音を立て眉間を銃弾が貫き、信者は何が起こったのかよく理解できぬまま目を見開いたまま倒れこみ、そして息絶えました。
潜水服を着た男たちは、国連軍の特殊部隊でした。
彼らは海へと潜り、島へ潜入し、地上の信者たちを射殺しながら地下へと降りてきたのです。
サイレンサー銃を手にした男は、顔に被っていた潜水服を脱ぎ、部屋の中央に設置された巨大なコンピューターを見上げます。

コンピューターは低い唸り声のような音を立てており、電磁パルス攻撃があったにも関わらず稼働しているようでした。
潜水服を脱いだ男は、その頰には古傷が刻まれており、いかにも熟練の兵士といった面持ちでした。

「フン、このコンピューターが我ら人類を滅ぼそうとしていた訳だな」

よく見ると、コンピューターの中央部には、円柱状のガラスの容器が設置されており、中には液体のようなものが波打っています。
男は容器の側に近づき、中を覗き込むと、その中には人間の脳髄が浮かんでおり、脳から伸びた無数のケーブルがコンピューターに繋がっていました。

「……隊長、この脳が報告にあった『レイ』ではありませんか? 」

と、頰に傷がある男の隣に立つ兵士が言いました。
隊長と呼ばれた男は、サイレンサー銃を容器の中に浮かぶ脳に向けました。
脳は何も抵抗もせず、容器の中で静かに揺れているだけでした。

「待ってください隊長、我らはレイに裁きを受けさせる為、生かしたまま捉えよ、と命を受けています! 」

「フン、バカを言うな。こんな脳髄を軍事法廷に持っていってどうすると言うんだね? 第一、何も証言なぞできんだろう。ここは現場の判断だ。誰も咎めやしないだろう。この脳は我らの世界を滅ぼそうとしていたのだぞ」

特殊部隊の隊長は脳にサイレンサー銃の照準を定め──「これでゲームオーバーだ。くたばれ、このサイコ野郎!」と呪文を唱えるように言いながら引き金を引きました。

――――つづく

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