自警団が寺院に押し入ってから、それからはアリエスは聖堂の中でホワイトセージの香を焚くのを怠りませんでした──このようにしておけば、強い香りでアセナの匂いを消せるからです。
寺院の周囲に住む羊たちは「ははあ、あの信心深いばあさんが、また何か儀式でもしているのだろう」と思うだけで、疑う事はありませんでした。
日に日に戦時色が強まっていくメリナ王国でしたが、ある日、オオカミ族がメリナ王国を急襲する、という噂が流れました(けっきょくの所、後々にその噂は単なるデマであると分かりましたが)。
オオカミ族の襲来を恐れた羊たちは、皆家に閉じこもり息を潜めます。
その頃合いを見計らい、アリエスはソールとアセナを地下室から出し、アセナの望む行動を取らせる事にしました。
──その前の夜、夢に再びあの天使が現れアリエスにこう告げたのです。
「アリエス、ソールとアセナは我々最後の《希望》です。希望の火を絶やしてはなりません。
二匹は何としてでも生き延びなければならないのです。しかしその行く手は、とても厳しいものとなりましょう……。敵には別の《天使》がついています。この《天使》は私なんかより
も、遥かに強大な力を有しています。彼は私と違い、どこにでも姿を現し、言葉巧みに羊をたぶらかすのです」
光り輝く《天使》の姿を見届けようと、アリエスは手をかざします。しかし、やはりその姿はよく見えませんでした。
「あなたが本当に天使であるならば、是非お答えください。何故あの二匹に、そのような試練を与えなさるのです ? 二匹はオオカミ族にも羊族にも追われていて、仲間が誰も居ないのですよ」
「いいえ、仲間は居ます。私は、すでにその仲間たちにメッセージを伝えました。きっと共に戦ってくれるでしょう」
夢から目が覚めそうになったので、最後にアリエスは聞きました。
「あなたには名前はあるのですか ? もし名前があれば、是非お教えください」
徐々にその姿を消しながら《天使》は答えます。
「私の名はエリ。《光り輝けるもの》、または《堕天使》とも呼ばれています……」
アリエスは夢でした会話をアセナとソールに一語一句正確に伝え、二匹の手を強く握りしめ最後の別れをしました──二匹を送り出し、姿が見えなくなると聖堂に入り太陽神に二匹の無事を祈ります。ついでに、オオカミ族の神である月神にも祈りを捧げました。
アセナは夜道を歩きながら、ソールにポツリと言います。
「ねえ、ソール。本当に《天使》なんているのかな ? 」
「──私は信じるわ。きっと《天使》は私たちを助けてくれるわ」
故郷までの長い道のりを歩いている途中、メリナ王国軍が行軍しているのが見えたので、アセナとソールは急いで身を隠します──今まで見た事のないほど大勢の羊兵と共に、巨大な大砲を馬が引いているのが見えました。
どうやら、いよいよメリナ王国軍の本隊が動き始めたようです。
いくらオオカミの戦闘力が羊に勝っているとはいえ、これだけ多くの羊兵が襲ってくれば、オオカミ族はひとたまりもないでしょう。
アセナは故郷への歩みを速めました──その後を息を切らせながらソールが追います。
ほとんど休む間もなく歩き続け、三日三晩目、二匹はヴィーグリーズの谷の入り口に入りまし
た──そこは、幸いにも羊軍はまだ占領していないようです。
辺りの気配を注意深く窺いながら、アセナは一呼吸深く吸い込み、暗号を含んだ遠吠えをあげました。その暗号は、小さい頃から世話になっているマーナガルムにしか分からないものでした。
もうアセナには、マーナガルムしか頼れるオオカミがいないのです。
半刻ばかり過ぎた頃、マーナガルムが静かに姿を現します。
マーナガルムはアセナを見ると、その変貌ぶりに驚きました──アセナの右耳には大きな穴が開いていて、立派だった尾がなくなっており、代わりに羊のような白い尾が生えていたのですから。
しかし、その気配からは、すでにアセナは一人前のオオカミへと成長を遂げたのが見て取れました。
もしアセナがフェンリルを倒したのが本当であるならば、もはやアセナと互角に戦えるオオカミは居ないでしょう。
「ぼっちゃん、いえアセナ様。よくぞご無事で ! ……しかし、父上はあなたを決して許しはしないでしょう。あなたは、フェンリルを殺したのですから。なるべく手助けはしますが、でもここにあなたの居場所はありませんよ」
アセナは担いでいた弓矢を下に寝かせ、地面に腰を下ろしマーナガルムの目を見据えながら言いました。
「分かっている。でも僕はオオカミ族を救いたいんだ。このままだと、オオカミ族はメリナ王国軍に滅ぼされてしまうだろう。僕らはメリナ王国軍の大軍が、巨大な大砲をもってくるのを見たんだ」
マーナガルムは耳をピクピクと動かしながら、しばらく黙っていましたが、やがて口を開きます。
「……ぼっちゃん、ヤツらの狙いはオオカミ族ではありません。狙いは、あなた達です。──勿論、オオカミ族も滅ぼすつもりでしょう。私はこのほど、誰がこの戦争の糸を引いているのか、ようやく突き止めました。羊村通商大臣ヘルメスです。当初はオオカミ族を滅ぼす事のみが、目的だったようなのですが、誰かの命を受け、あなた達二匹を抹殺する軍事行動へと切り替わったのです。あなたが見た、メリナ王国軍の本隊はその為に呼び寄せられたのでしょう」
「なんだって !? 僕たち二匹を殺す為だけに、あれだけの規模の軍隊を?そんなバカな!」
マーナガルムは立ち上がり、考え込むようにして周囲を歩きまわりました。
「けっきょく、ジャッカル共和国は我らを見捨てました。しかしどういう訳か最近、アヌビス族とキメラ族の二族が我らへの協力を申し出てきたのです……。恐らくは、ヘルメスはそれを知り、軍を増援したのでしょう」
「アヌビス族は、確かオオカミとジャッカルの両種族の血を引く部族だね ? ──その戦闘力はオオカミに引けを取らない、と言われている。しかしキメラ族とはどんな部族なんだい?」
「ぼっちゃん、そこが不思議でしてね。キメラ族は本来、羊系の種族なんですよ。その彼らが羊ではなく、我らオオカミに手を貸すと言っているんです。しかし、彼らは自分達は半分は
《神》の血を引いている、と主張しています。──我々は《天使》からの啓示を授かったので、もしヘルメスを倒すのであれば、いつでも軍を出すと言っているのです。本当なのか定かでありませんが、キメラ族は《神》から授かった武器で戦う部族だと噂されています……」
――――つづく
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