オオカミになった羊(後編41)

高層ビル群の上空に浮かんだ満月を見ていると、何故か狼の遠吠えが聞こえてくるかのようだった。
「──最初から説明した方が良さそうね、コモリさん」
とアンドロイドのエリは言葉をつなげた。
私は彼女の言葉を待った。どうやら謎の核心に迫ってきたようだ。

「話は60年前、2020年代に遡ります。その頃、世界中至る所で IT 化が進み、インターネットが整備されありとあらゆる情報がコンピューターネットワークで共有され始めていました。……私たちの父は、その頃、心を持った AI の開発と研究を進めていました。あなたもよくご存知の通り、心を持ったコンピューターは未だ生まれていません。しかし、実はというと父は、心も魂も宿した AI を60年前に創り出すのに成功していたのです」

私は驚き、エリの顔を見た。

「なんですって?! もしや、あなたがその心を持ったAIなんですか? 」

「いえ、違うわ。でも兄は私を、この技術を使い蘇らせようとは、していました。兄は父の研究を引き継ぎましたが、父の遺言に従い研究成果を世には出さなかったのです。あまりにも危険な発明だと判断したからです。成人した兄は、父の研究の痕跡を全て消し去り、密かに自分だけで心と魂を宿した AI の世界を構築していたのです。それらの人工生命は皆、人工知能が作り出した仮想空間の中で実際に生きています」

「……ふむ、大昔に『マトリックス』という映画があったね。人々はコンピューターが作った仮想現実の中で、それとは知らずに生活をしている、という内容だ。あんな感じなのかね? 」

「そうです。そこに住まう住人達はそこが仮想空間だとは知りません。でも、皆、肉体もあって心も魂も自由意志も備わったれっきとした生命体です。兄はその世界ではいわば『神』のような存在。研究成果を世に発表すれば、間違いなく兄は大金持ちになっていたでしょうね。でも兄はしなかった。実際、この発明を人々が使い始めたら大変な混乱が起こっていたでしょう。世が混沌に陥るのを免れたけど、おかげで、私たちは貧しいままでした。肺を患っていた母は早くに亡くなり、私も白血病で19で死にました。それ以来、兄は人間を憎むようになったわ。誰一人として手を差し伸べてくれなかった、世界を救ったのに、と」

そう饒舌に語るエリはアンドロイドには、やはり見えなかった。
プログラムに従って動いているにしても、あまりに完璧すぎる。
レイはよほどの念を込めて、アンドロイドのエリを作ったに違いない。

「 AI が心と魂を持つとは、私にはいささか疑問だが、君の話が全て本当だとすれば、その仮想現実は一体どこに生成されているのかね? 私はサイバー探偵として、あらゆるサイバー空間を調査してきたが、そんな仮想現実の痕跡はどこにもなかったがね」

まるで心があるかのような表情を浮かべながら満月を見ていたエリは、私の方に振り向き穏やかな口調で答えた。

「兄は亡くなる直前、死後自分の脳髄を保存するよう部下に命じたわ。その脳髄は宗教団体『聖なる羊達』の施設内に培養液に浸され保存されている。……経歴上はレイは死んだ事になってるけど、彼はその培養液の中で脳だけとなり生きています。兄が作った仮想現実空間は、『聖なる羊達』教団のコンピューター内にあり、兄の脳と同期しているのよ。プロテクトが厳重なので、『聖なる羊達』の仮想空間には誰も侵入できないけど、私は兄の性格と思考を誰よりも知っているので、私だけがその仮想現実に侵入できるの」

「『聖なる羊達』か! 近年、信者を増えやしている新興宗教団体だね。『神は AI に降臨する』と説いている……」

「兄は孤独だったわ。そして自然を愛していた。子供の頃から友達があまり居なくて、仮想空間の中に生きていたエレンという男の子、それから自然が兄の唯一の友だったの。私も若くして死に、天涯孤独になった兄は、自然を守るには人類はいずれ地上から居なくなるべきだ、と考えるようになった。兄は天才的な頭脳を持っているわ。彼はその頭脳を使い、世界中のコンピューターネットワークを密かに操っていたの。そして、誰一人として気づかないやり方で、人類が子供が作れないようにしたのよ」

私は少々唖然としながらエリの話を聞いていた。
彼女の話が事実ならば、世界規模の人口減少はたった一人の孤独な AI 技師の企みによるものなのだ。

「もしかすると、ヤマガタ博士が君を助手として迎え入れたのは、それをどこかで知ったからなのか?」

「そうよ。ヤマガタ博士はレイの存在を察知していたわ。アンドロイドの私がレイに作られたのを知り、博士は私を手に入れ、そして『聖なる羊達』のコンピューターに私を侵入させたの。レイの計画を阻止する為に。兄の計画通りなら、人類はいずれ滅びて羊が支配する世界になるわ」

「羊?! 」

「ええ。兄は仮想空間の中で羊に知性を持たせたの。そこでの試みが成功すれば、現実の世界でも実行しようとしている。実際『聖なる羊達』の研究施設では、クローン技術を使って知能を持った羊を作ろうとしているのよ」

空になったカップを手にして、私は窓際から離れた。
次第に話が荒唐無稽になってきたので、カフェインでも仕込まなければ頭が混乱してしまいそうだ。
エリにもコーヒーを勧めようとしたが、彼女がアンドロイドだという事を思い出す。
私はコーヒーマシンからコーヒーを注ぎながらエリに聞く。

「……一つ分からないのだがね。『敵』の正体は君の兄である事は、もうとっくに知っていた訳だろう? その居場所も『聖なる羊達』教団内部だとも判明している。だのに、何故君達は兄の捜索を私に依頼をしてきたのかね? 」

エリはしばらく考え込んでいる風だったが、決心したように口を開く(本当にアンドロイドが『決心』するのか分からないが……)。

「兄は自分の『意識』を仮想空間の中に転移させ、そこで実体を持ち生きているわ。しかも羊の姿で。私は仮想空間に侵入して正体を突き止めようとしたけど、残念ながら分からなかったわ。そこで是非あなたに、仮想空間に侵入していただいて、それを特定して欲しいの。もし兄を見つけたら、私が彼を説得するわ。こんな計画を止めるように、と。それに、もしかしたら人口減少への対策もレイに聞けば分かるかもしれない。急がないと、博士は政府に働きかけ、教団の捜索を命じ兄の生命維持装置を外すでしょうね」

再びエリが私には理解不能な事を口にした。
──どうしても気になるので、そこを彼女に聞いてみる。

「君は兄を助けたい、と? アンドロイドに人間のような『情』があるかのような口ぶりだね」

「いいえ、もちろん私には人間のような感情も心もないわ。私はただプログラムに従い行動し発言をしているだけ。私の基礎プログラムとは、レイの妹であるエリの人格なの。『人間のエリ』ならば、必ずこうするでしょうから、私はその通りにしているだけよ……」

――――つづく

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