ぐっちーさんと話そう<36> 好奇心を育てるには?

好奇心は自分をも殺す? illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟

Twitterでお話しました

こんにちは。今週もよろしくお願いします!

みなさまこんにちは。
「妄想生き物紀行」編集担当、ホテル暴風雨オーナー雨こと斎藤雨梟です。

今回も、ポッドキャスター・ぐっちーさんのエッセイ「独自テーマ番外編:基礎研究〜好奇心とわがままの重要性」を読んで、ぐっちーさんにあれこれお聞きしたもようを、お伝えいたします。

先週のぐっちーさんのエッセイをお読みいただくとより楽しめる内容です。

ぐっちーさん、よろしくお願いします

わがままに生きるとは

みなさま、ぐっちーさんの先週のエッセイ(や、参考リンクの真鍋淑郎さんのインタビュー)を読んで、どう思われたでしょうか?

私はずいぶん考えてしまいました。たとえばこんなことを。

行動は目に見えるけれど好奇心は目に見えないですからね。

「何の役に立つとか誰のためになるとか関係なく、したいことをする」つまり好奇心の赴くまま行動するって、最高に幸せな一方、内容によっては「わがまま」とか、それ以上に悪いことととらえられかねない。例えば、好奇心にかられ、家に引きこもってずーっと毒物劇物を作ったりしてたら、注意を受けるのもまあ、仕方がないというか、わかります。

こんなのは今始まったわけではない永遠のテーマなんですが、妙に私はハマってしまい、どうコメントしていいかわからなくなるほどでした。

そうそう、わがままにも好奇心にも寛容な社会とそうでない社会、一体どこが違うんでしょう。

そこへホテル暴風雨・風オーナーが登場。

人口密度。それが重要要素なのは実感できます。隣人が毒物の生成に熱中していたとして、小さくて壁の薄いアパートの隣室だったら今すぐやめてほしくなりますが、100メートル離れていれば、撒き散らさず安全に保管・廃棄してくれればいいか、と思えるというもの。

さてぐっちーさんのご意見は?

うーむ。

田舎と都会の気質の違いって、私にとっては「何となくのイメージ」でしかなく、正直わからないのですが、人口密度がもともと高いところにいた人と、急に人口密度の低いところから高いところへ移ってきた人とを比べた時、後者の方が他人の行為をより気にし、ダメージを受けやすいのは、ほとんど明らかに思います。

では、日本よりもアメリカでわがままが許容されがちなのは、寛容だからではなく場所が広いから? もう少し広く捉えれば、(物理的なスペースに限らず)個人の持っているリソースが大きいから許容範囲が広いのであって、急にそのリソースを減らされればたちまち狭くなるのか。

それとは一見矛盾するようなぐっちーさんの疑問も、大いに気になります。

都会の人(=最初から小さなリソースで生き慣れている人)は、骨の髄まで不寛容になるのか、むしろ慣れて諦めるのか。

満員電車。あれは非常に不愉快なものです。どんなにポジティブシンキングな人でも、さすがに「暖かい」「人と触れ合える」と捉えて楽しめばいいじゃん♪ とはいかないでしょう。少なくとも私は無理です。生きる上で不可避であれば慣れて諦めるしかないですが、そのぶん澱のように不寛容を溜めに溜めて生きているんでしょうか、都会の人は。

本気で悲しくなってきましたが気を取り直して行こう……風オーナー、ありがとうございます!

「人がどう思うかなど考えない」という人がどう思うかは考える? 考えない?

シャルル大熊さんからこんなコメントをいただきました。

これ、どうなんでしょう? 現代では、家事育児はいわゆる仕事より価値が低い上面倒で地味な重労働なのにそれを全部人にやらせるとはケシカラン、という意見もあれば、むしろ家事や育児のクリエイティビティが見直され、正当な評価を与えるべきだとか、むしろそれは義務ではなく経験する権利が人にはあるという考え方もあります。後者は役割がある程度フレキシブルにならないと普及しない考えかと思いますが、義務を放棄するのは責められる行為なものの、権利を放棄するのは別に本人が良いなら構わないということになります。養育者でありながら育児参加しない人がいることを子供の立場から考えても、どっちも良し悪しってこともあるでしょう。価値観が多様なほど、どう捉えられるかは予想が難しいですね。

「日本での一般的な受け止め方」が実際どうであるかは調査もしていないし不明です。ただ、真鍋博士の世代であればよくある当たり前の夫婦像だったろうと受け止められるでしょうし、妻の貢献に意識を向けて感謝を述べている点、むしろ欧米的であるとか先進的であると見る人もいるのではないかと、私は想像します。

とはいえ、現代のアメリカでは、もし創作物でそういう側面を極端に美談として描いたら反発を受けそうな印象はあります。「事実を述べた」場合は果たしてどうなのか。

私はこんな風に感じました。

日本では「人と違う」ことに対して不寛容だと言われますし、実際そうだと感じます。

かといって、ものすごい精度でみんなと同じ定型フォーマットに合わせる努力が高く評価されるわけではなく、みんなが思ってそうなことを(そんなに深く共感していなくても取り敢えず)口に出すことにはずいぶん寛容です。

人目を気にするとは人がどう思うか考えるということですが、「人目を気にしない人」や「人がどう思うか考えない人」がどう考えるか、はあまり考えないとも言えます。

つまり、「人の気持ちを考える」時の「人」が、平均的人間という概念と化してしまい、目の前の実際の人間とは違っていても、気にしないということです。

そうするとどうなるかというと、好奇心を「わがまま」として糾弾する、認めない、というよりは、非常に強い好奇心の存在を信じなくなるのではないでしょうか。なぜならば好奇心というのはむき出しの野生みたいなもので、人それぞれ非常に個性があり、誰もが平均的に持っているものではないからです。

「何の役にも立たないけれどやってみたい」と人に思わせる「好奇心」は、実在するかもわからない妖精みたいなモノなので、「人類の幸福と利益に多大な貢献をするであろう研究を私はしたい」などと、いわば、みんなが妖精といえば思い浮かべるようなそれっぽい絵を描いて見せるパフォーマンスをしないと納得できなくなってしまっているのでは。

以上をふまえた私の結論:

日本が科学立国となるには、妖精を信じるところから。それがティンカーベルみたいな可愛いのじゃなく、どっちかというと妖怪みたいなやつでもだ。

シャルル大熊さん、ありがとうございます!

妖怪「好奇心」は実在する

さて今回のページトップの絵はこんなのです。

今週は私の考えたことばかり長めに書いてしまいましたが、この際なのでついでに。

現代日本は並外れた好奇心を妖精レベルで信じなくなってるのでは? という気がどんどんしてきたのですが、実際には好奇心はそこら中に転がっていると思います。見ないふりをしても支障がないのでそうするだけで。

でも、この好奇心というやつ、他人のそれが「わがまま」に見えて気に障るという以上の、もっと厄介な一面も持つものです。好奇心の赴くまま行動したら「他人に迷惑をかけるかもしれない」のでやめてしまう、なんて一種の言い訳で、本質的には自分を破綻させかねないから恐怖を伴うものなのだと思います。小さな、ちょっとした、影響力が弱く許容されそうな好奇心は金魚鉢の中の金魚のようなもの。でも同じ鉢にとんでもないモンスターがいたら、そいつの言うことを聞いてやるのか、無視するのか、社会がどうであれ難しい選択です。

とか何とか、思いながら描いた絵です。好奇心に従うとホラ、小さな可愛い金魚は飛び出しちゃうし、軽装備で突っ込もうとしているのは水たまり? 沼? 海!? さてどうする。

というわけで、今回はこれにて。

次回のエッセイのテーマは「イノシシ」。妄想旅ラジオ第37回「イノシシ」もぜひお聴きください。日本では身近な生き物だった「イノシシ」と人との関わり方について考えた後は、遠くまで妄想旅行をして、エキゾチックな食文化に触れられるという盛りだくさんな内容です。エッセイもどんなお話になるのか、どうぞお楽しみに。そしてまた Twitter でもお会いしましょう!

ご意見・ご感想・ぐっちーさんへのメッセージは、こちらのコンタクトフォームからお待ちしております。

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