このホテルのオーナー、絵本作家の風木一人さんとのコラボレーション作品「とんでいく」の企画として当初は3ヶ月くらいの予定でスタートしたこの育児ノートだが、継続することを決めてから約2年半、1歳半だった子どもは4歳になり、自分も父親として4歳になった。
育児に関する知識も経験も全くなく、ミュージシャンというどこまでも不安定な仕事をしている自分が、これまで養育者としてどうにかやってこられたことは控えめに言ってもほとんど奇跡としか思えない。 たびたびやってくるどこか誰も知らない遠い国に旅に出たくなる気持ちを繋ぎ止められたのは、読者のみなさんと風木さんのおかげである。
「魔の2歳」「悪魔の3歳」の後にやってくると言われている「天使の4歳」に淡い期待を持ってはいるが、仲良くしてもらっている育児の先輩に聞いたところ「天使は来ません」と断言されてしまったので、この際そういう覚悟で臨もうと思っている。
このノートがなければきっとほとんどのことが忘却の彼方に消えてしまっていたはずだが、自分の育児の備忘録として、子どもが5歳になるまではなんとか続けようと思っている。
読者のみなさんにもう一年、お付き合いをお願いしたい。
このところの息子はちょっと前よりもずいぶんしっかりと自分の気持ちを絶叫以外の方法で伝えることができるようになってきている。(もちろん泣くけど)
「まるいゼリー!」
「まるいゼリーがなに?」
「まるいゼリー食べたい」
「食べたいんだね、そういう時はなんて言ったらいいと思う?」
「まるいゼリーくーださいっ!もものやつがいい」
「そう!そう言ってくれれば父さんわかるよ」
こうした小さな積み重ねの結果、子どもは少しずつ、より効率的なコミュニケーション能力を獲得しつつあるように思う。これは養育者にとっても子どもにとっても、絶叫よりよほどありがたいことである。
しかし、さらに最近になって子どもが心理的な駆け引きをしてくるようになった。ある日の夜、いつものゼリーを食べた後のことである。
「ゼリーもう一個だけ食べたい、一個だけいい?ダメ?」
「ゼリーさっき食べたでしょ?そんなに食べたらおなか痛くなるよ、おへそからゼリー出ちゃうかもよ?」
「でないよ!(おへそを確認する)。。。ねえダメ?ダメだと。。。。。泣くよっ!?」
いやちょっと待て、泣かなくていい。泣いてもいいけどどちらかと言えばこんな時間に泣いて欲しくない。
しばしの交渉の上、食べたらすぐに歯磨きをして寝るという約束で息子は小さな丸いゼリーを手に入れることになった。
これと同様に、ある時取り込んだ洗濯物を子どもの自宅での定位置であるソファーの上に散らかしたままにしておいたところ、
「ここの上に置かないで!怒るよ!」
と言われてしまった。以前にも「父さん、おこるよ」と言われたことはあったが、ここまで具体的だとさすがに自分の非を認めなくてはならない。
「ごめんごめん、片付けるからちょっと待ってて」
といいつつ洗濯物をソファーから取り上げている時、ふと気がついた。これは完全に自分の言っていることのモデリングである。
言うことを聞かずに歯ブラシをくわえたまま走り回ったり、おもちゃを乱暴に投げたりした時に「あぶないからやめて!父さん怒るよ!」などとつい自分が言っているのである。
子どもから自分の非を咎められるのはちょっと情けない気持ちにもなったが、それと同時に、子どもが「怒る」ということを感情として自覚し、言葉にして表現できるようになったことに驚いた。「怒るよ」ということは、今はまだ怒っていない、ということなのである。これは情動を客観的に認識できているということではないだろうか。
怒られて良い気持ちがしないのは、きっと子どもも大人も同じである。しかし、そこにきちんとした合理性があれば、子どもも大人もそれを受け入れてあらためることができる。大切なのは不利益な行動であることを共通認識として持つことであり、怒る気持ちやその人間を否定することではない。
自分が子どもの大切な場所であるソファーに洗濯物を置きっぱなしにしたのはよくないけれど、だからと言って父さんがとりわけひどい人間だということにはならないだろう。謝って洗濯物を片付ければ、子どもはそれで満足してくれるはずだ。
人間が怒ったり喜んだり悲しんだりするのは当然で、大人も子どもも同じである。それをどう相手に伝えて理解を深めていけるか、大人がお手本を見せられるようになりたいものである。
(by 黒沢秀樹)