お風呂と塩昆布
あまり広くはないバスルームにはおもちゃの類は出来るだけ持ち込まないようにしているが、胴体が4つに分かれるペンギンのおもちゃと、塩昆布の入っていた容器が息子の今のお気に入りである。お風呂でどうして塩昆布なのかというと、
あまり広くはないバスルームにはおもちゃの類は出来るだけ持ち込まないようにしているが、胴体が4つに分かれるペンギンのおもちゃと、塩昆布の入っていた容器が息子の今のお気に入りである。お風呂でどうして塩昆布なのかというと、
世の中には手づくりのクッキーとそうではないクッキーがあることを知ってしまったのだ。それ以降「手づくりのクッキー食べたい」とよく言っているが、手作りの方がおいしいとは限らないという現実があることも、いつか知ることになるのだろう。
本当は逆なんじゃないか、と思うようにもなってきた。仕事というのは自分の時間や労力を誰かのために費やすことである。その誰かがまずは子どもであることは間違いではないだろう。そんなふうに考えられるようになったのは、つい最近のことである。
なんでも自分ですると言ってチャレンジし、挫折するとすぐに「父さんがやって」ということになるわけだが、自分が何かしてあげたいという気持ちと、自分にはできないことがまだたくさんあるという現実の中で揺れ動いているようだ。
「イヤイヤ期」というのは育児ワードの中では有名だが、息子はイヤイヤと同時になんでも「したい、する!」と言う「するする期」に突入し、さらに自分以外の誰か(たまに人じゃなかったりもする)に「してあげる」といいはじめる「してあげる期」の中にいる。
「最近あっという間に時間が過ぎちゃう」というような会話をよくするがそれは単純に自分がポンコツになってきて今までのような効率で物事ができなくなっているからだと思っていたが実はそれだけではないらしい。 これは「ジャネーの法則」と言い、19世紀の
冷めたスープを「ふーふー」することの意味を考えてしまうようになると、自分の心も相当冷えてしまっていると言えるだろう。そういう見方をするならば、育児は不合理で非効率的なことのオンパレードである。しかし、大人にとっては無駄に思えることこそが、
子どもは普通にしていてもかまってもらえないことに気がつくと、何か気を引くことをし始める。放っておくとそれは緊急度の高い行動にどんどんエスカレートしていくが、残念ながらそれは養育者をよりひどく困らせるだけで、より一層かまってもらえなくなると
ライブ当日の午前中から会場入りの時間ギリギリまで子どもと公園で過ごしたりしているわけだが、これは昔の自分には考えられない状況である。緊張感を持って入念にリハーサルを重ね、楽器の調整や衣装にも気を遣い、期待に応えるためにあらゆる労力を惜しまなかった自分が、
子どもはその成長に合わせて様々な言葉や行動を投げかけてくるが、そのバリエーションが爆発的に増える9歳くらいまでの時期を発達の臨界期というらしい。時折何を言っているのかわからないこともあるが、確実に何かを言語化して伝えようとしているのである。