この世界のどこかに、「バベルの図書館」という図書館があるそうです。
無限の広さと無数の蔵書を持つその図書館には、アルファベットを使った文字列の可能な組合せのすべてが印刷されて本となって収められており、よって人類による過去・現在・未来にわたる全ての本を含んだ本がそこにあるということになります(ただし、アルファベット以外を用いて書かれた本に関しては「翻訳」ということになりますが。翻訳本だけでなく、乱丁や偽書ももれなく含まれています)。
というのは実はホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説「バベルの図書館」のお話なのですが、時々この「バベルの図書館」が出張してきて、まだ図書館の外には出たことのない、つまりはこの世で発表されたことのない謎の本を見せてくれることがある気がしてなりません。
はじめて「出張バベルの図書館」のお世話になったのはいつのことだか、もう思い出すことができませんが、かなり古い部類の記憶で今も鮮明なのが、小学校に入った年のことです。
それは夏の入り口のこと。体育の授業で「水泳」が始まりました。プールに入る日は、「水泳カード」というカードに、朝の体温や体調を記録して持って行く決まりになっており、カードにはその記録欄だけでなく、水泳をするときの心得なども記されていました。中でも「準備体操をかならずしよう」というメッセージには広い面積が割かれており、準備体操をしないとどれほど恐ろしいことになるかがイラストつきで列挙されていたのです。
たとえば、「足をつる」「気分が悪くなる」などの定番のトラブルです。その中でひときわ異彩を放っていたのが「ざんねんをする」という項目で、見るからにものすごく残念そうな、しょんぼりした少年の絵が描いてあり、「これは恐ろしい」と幼心に強烈な印象を残しました。
恐らくお気づきの通り、それは「ざんねん」ではなく「ねんざ(捻挫)」の読み間違いで、しょんぼりした少年は足を捻挫したゆえにしょんぼりしているに過ぎなかったわけです。きっとよく見れば痛そうに足を押さえている絵だったのでしょう。
が、そんなことを今になって気づいたところで後の祭りというもので、すでに私の頭の中には「準備体操をしないとどれくらいざんねんなことが起こるのだろうか」という妄想が暴走気味に膨らみ、それこそ盛大な祭が開催されておりました。
そして妄想の片隅に、必ず読まねばならない本が並べてある、という設定の重々しい本棚が現れ、「ざんねん予防法」という本の姿が、表紙の絵までありありと鮮やかに浮かんだのです。
何しろ「ざんねん」という項目は「足がつる」などの他項目と比べて格段に抽象的です。水泳の時以外にも世界は「ざんねん」の脅威に満ちているような気がしたのでしょう。それほど恐ろしいものであるならば、何とか防ぐために大人の偉い人たちも一生懸命考えて、本なんかも書いているに違いない、と思ったのだかどうだったのか、仔細は謎です。
それは多分、「水泳カード」に描いてあった捻挫をした少年の絵と、あとは祖父の本棚で見たことのある「○○健康法」といった類の、子供心にもなんだか怪しげと思わせる本の記憶とが混ざり合って生まれたものだったとは思いますが、とにかくその本の存在を迫り来るように「感じた」のでした。
もしもバベルの図書館に行くことがあったら、この「ざんねん予防法」を是非とも読み、「ざんねん」の予防に努めたいものです。
また最近にも、「出張バベルの図書館」が面白そうな本の表紙を一瞬だけ、見せてくれたことがありました。
今年は、サン=テクジュペリ著の名作「星の王子さま」の新訳ラッシュの年だったようで(2005年1月に日本での著作権が消滅するのに伴い、こういうことになったようです)、様々な翻訳家による多バージョンの「星の王子さま」が書店に並んでいます。2005年6月に逝去された作家、倉橋由美子の愛読者である私としては、遺作である倉橋訳「星の王子さま」だけは是非ともと購入して読みましたが、他にも「新訳」やら「超訳」やらあらゆるものが出版されているのです。
「たくさんあるなあ」と書店の棚を見ているとき、それら「超訳」と「新訳」が混ざったものと思われますが、ふと私の目に「超新星の王子さま」という本が見えた気がしました。
ご存知「星の王子さま」は、歩いてすぐに一周できるような小さな星から来た王子さまです。
そして、「超新星」とは星というより「超新星爆発」という現象を表す言葉。人の一生に終わりがあるように夜空の星々の一生にも終わりがあり、太陽の10倍程度以上の質量を持つ星は、その生涯の最期に、巨大規模の大爆発をすると言われています。爆発に伴う核融合で様々な物質が作られて宇宙にばらまかれ、新たな天体の材料ともなるため「超新星」「超新星爆発」などと呼ばれる(由来としては、爆発が原因と知られるよりもっと古くから、ひときわ明るい星が現れることを「新星」、明るさの著しいものを特に「超新星」と呼んでいたらしい)のですが、超新星の王子さまって一体どんな王子さまでしょうか。芸術が爆発していたりするアナーキーな王子さまか。だが王子なのにアナーキーというのもどうか。興味が尽きることがありません。
バベルの図書館に行くことがかなうなら、「超新星の王子さま」も忘れずに読んできたいです。
※2005年にホームページ旧「雨梟庵」に掲載した文章「雨梟庵雑記」に加筆修正のうえ再録したものです。
☆☆☆おまけのあとがき☆☆☆
2005年に書いたものということで、だいぶ古い内容になってしまいました。「超新星の王子様」のことはうっかり忘れていたのですが、「ざんねん予防法」のことははっきりと覚えているので、記憶とは不思議なものです。
ところで、ボルヘス「バベルの図書館」についてはこちらでも書いていますが、
ホテル暴風雨スタッフルームで連載中のマンガ&絵とお話「ホテル暴風雨の日々」で、ホテルのコンシェルジュ兼図書館司書を白ヤギの「バベルさん」としたのは、もちろんこの「バベルの図書館」を意識してのことです。最初はホテル一の博識で知られる真面目なキャラクターにして、時々語り手、解説者のように登場させようと思っていたのですが、
いつの間にか将棋で負けてお手紙を食べちゃったり
https://hotel-bfu.com/hibi/comic-hibi/2016/08/11/ep_10/
てきとうな思いつきをもっともらしく言ってホテル中を混乱に陥れ(?)たり
https://hotel-bfu.com/hibi/tsubuyaki/2017/07/13/arbre-3/
落語「時そば」を地でいってみたり
https://hotel-bfu.com/hibi/tsubuyaki/2017/10/26/lau_arbre/
と、なかなか油断のならないふざけた成長ぶりを見せています。
この、ホテル暴風雨にあるほうの「バベルの図書館」にまつわる不思議も、いつか書きたいと思っています。
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