映画『万引き家族』を観た
うちから歩いて行けるところに映画館がある。スクリーンが10くらいある、いわゆるシネコンで、いつ行っても空いている。話題作でも余裕で座れる。大丈夫かと心配になる。空いている方がいいが、徒歩圏に映画館があるのはありがたいので潰れないで頑張ってほしい。矛盾した願望であるが、願望たるもの、いくつかの複数の要素に分割すればそれらが相互に矛盾するのは珍しいことではない。
さてこの映画、是枝裕和監督『万引き家族』は、封切り間もない話題作とあって、近所のシネコンの中でも最大の「スクリーン1」で上映されていた。空いていた。だがこの映画館としては入っている方だ。ほぼ貸切だった経験もある。それと比較すれば「大入り」くらいだ。
「家族」の映画、と言っていいと思う。万引き「家族」だし。いいタイトルだ。観てみると、このタイトルは必ずしも内容をぴたりと表現しているとは言えないとも思えてくる。だが観終わって考えると、やはりこれでいいのだと再び思えてくる。
私は「家族」=「無条件に良いもの」という信仰はまったく持っていない。そしてこの映画はとても面白かった。だが、家族礼賛派かそうでないかは、本作に対して賛否を決める境界線にはなっていない。そこがまた面白いと思ったので、感じたことは色々あるがその辺りを軸とした感想を書きたい。
置かれた場所でどう咲く?『万引き家族』はこんな家族
「ちいさいおうち」という絵本があるがちょうどあんな感じで開発から取り残され、高層マンションの谷間にひっそり建つ、古くてボロい一軒家に家族が住んでいる。家族構成は、夫婦とその子ども、妻の妹、夫婦どちらかの母親と思しきおばあさん。
一家の主な収入は祖母の年金と父子による「万引き」だと、各所での紹介文にも書いてあるし公式サイトにもそれに近いことが書いてある。一家の住む家も祖母のものらしい。だが物語が始まる時点では、父は日雇い労働者として働き、母もクリーニング工場でちゃんと働いている。生活が苦しいのを万引きで補ってはいるが、それが主収入とは思えない。
というあたりまで書いても別にネタバレにはなるまい。
彼らは決して、社会を狩場として盗む気満々で生きているわけではない。ただ、正攻法だけで社会に挑めば疲弊するばかりか勝算が薄いことを経験で知っていて、時として狡く立ち回ることを恥じるわけでもない。
『置かれた場所で咲きなさい』という本が話題になったが、この家族はまさに、社会の底のさらに隅っこの方に置かれたらどう咲くか?という問いに対し、そうきたか、という奇跡的なアンサーのように存在している。清くも正しくもないけれど、仲良く楽しく暮らす様は美しくも感じられる。
だがこの家族には万引きという犯罪以上の秘密がある。中盤から、怒涛のようにそれらが明かされてゆき、家族の「形」は目に見えて変化し、崩壊してゆくかに見える。
家族のルール
本作の物語の発端になるのは、寒い冬の夜に団地のベランダにお腹を空かせて放置されていた女の子を家族として迎え入れたことだ。まだ幼く、自分から多くを語ることはないが、実の親に虐待されていることがほぼ明らかな少女。彼女は実の親の家に戻らず、「万引き家族」の一員となることを自ら選ぶ。
観客の目にも、実の親元にいるよりもこの家族に迎えられる方が幸せではないかと映る。だが、本当にそうなのか、とそれ以降の場面で問われ続ける。
一家と少女との間に、血の繋がりよりも強い、あるいは尊い絆を見る人は多いだろう。私もそうだが、この感じ方が「家族礼賛派」に属するのか、その逆なのか、私にはよくわからない。というのも、観ながら、もう少し違うことも考えたからだ。
私は「家族」=「良いもの」という信仰を持たないと先に書いたが、むしろそういう無条件な信仰には嫌悪感があるほうだ。
例えば、求人広告に「社員は家族」だとか「アットホームな職場」などと書かれていたら、私は「うげえ、ここはやめておくか」と咄嗟に感じるだろう。なぜそう感じるか、咄嗟にどんな「嫌なもの」を感じ取るかを説明するのは、感覚的なことゆえ難しいが試みよう。
家族的な共同体、繋がりとは、たとえどんなにとんでもないルールでも暗黙に受け入れること、そのルールの中で互いを許容すること、を前提として成り立つものではないだろうか。ゆえに「家族のような」会社と言われると、とんでもない超過勤務やおかしな人々の理不尽な言動を無報酬で受け入れよというメッセージを感じ取ってしまう。
その代わり自分が許容されるというメリットもあるはずだが、どんなことは受け入れられ、どんなことは受け入れられないか、そのルールは不明だ。つまり、「こういうメリットを享受できますよ」とされていることが、自分にとってのメリットかどうかはわからない。
不慣れな仕事ができるようになるまで厳しくも暖かく、辛抱強く教えてもらえる、多少のミスを他の人がカバーしてくれ、許してもらえる、などのメリットならばありがたいかもしれない。
だが例えば、「昼食は社長自ら打った蕎麦をみんなで食べる」なんてメリットを提示されたらどうだ。社員は蕎麦アレルギーかもしれないし、食事なんか一人で食べるのが一番という性格かもしれないのに。「仕事が遅くても好きな時間までやっていい」などと言い張ってサービス残業を当然とする会社かもしれない。「個性が平等に尊重される」とうたっていても、例えば「実は足が4本あって靴を二足履いているから靴箱を二人分使いたい」という要望ごときが、「みんな平等に一人分ずつだから」という理由で却下されるかもしれない。足が4本あるんだから仕方がないという、自分にとっては当然の理屈が通用する保証はない。「話し合って解決」という場が根本的に噛み合わないようにできているのも家族的な関係性が備えがちな性質だ。
自分の在り方、感じ方を想定せずに作られたルールでのメリットが、自分にとってのメリットになり得るかは非常に怪しいものだが、「家族的」な繋がりは「何がメリットか」を明確に定義しないまま、それをメリットとして受け取ることを強要しがちだし、デメリットに関してはもう仕方がないことだからと受容一択である。互いに助け合うためという意味でデメリットを取ることは集団に属する以上仕方ない面も確かにあり、自分が大切に思う人たちのために何かすることに抵抗はないが、まだ帰属どころかよく知り合ってもいない人たちのためにあらかじめそれを強制されるのはごめんだ。
というような文脈で、「家族的」な集団であることを文句なく良いことのようにアピールするある種の鈍感さに嫌な気分になる。
会社のような集団の場合、すでに出来上がったルールの中に後から入っていくから嫌なのであって、自分も初期メンバーとしてルールを作る側にいればまた違うのだろう。だが、新しい構成員によって一から作られる集団であっても、社会通念などが既にあるルールとして当然のように機能すれば同様の居心地の悪さはすぐに形成される。
さて話は戻って映画の家族だが、この家族は社会通念をそうそうたやすく入り込ませない。お互いがどこか得体の知れないものだとわかっていながら、それでも互いに抱く愛情と信頼で繋がっている。
だが、やはり後から入ったメンバーであり、家族の中で力のない「子ども」の存在や感じ方をあまり想定せずに作られたルールで動いており、例えば息子の「祥太」が万引きをやめたいと思っても、それが簡単に現実化しないように成り立ってしまっている世界なのだ。
「血は水よりも濃い」という単なる事実にまとわりつく意味
一家の子どもである少年、祥太は、作中でとある決意をし、そのことで物語は大きく動く。
祥太は、時間があると押入れにこもり、どこかで調達してきた本を読んでいるようだ。国語の教科書にあった『スイミー』を父に読んで聞かせるというシーンもある。祥太は賢い少年で、誰に教わらずとも、本で得た知識や経験から自分の考えを作っていく。小さな魚である「スイミー」たちが大勢で一匹の巨大な魚のように振る舞い、大きな魚を撃退する話を読み、弱者の知恵ともいうべきスイミーの作戦をすごいと思いながらも「でも大きい魚だってかわいそうだ」と感じる感性も持っている。
祥太がもう少し自分で何かをする力をつけるほどに成長していたら、例えば「万引きをするのは嫌だ」と思っても、また別の選択があったかもしれない。
「万引きなんかしないで大規模窃盗団作って大きな仕事しようよ」かもしれないし、「家族で何か商売を始めようよ」かもしれない。意外と普通に、「自分も働くから、お父さんとお母さんも何か新しい仕事を探して働いてよ」かもしれない。だが、家族に対してこの種の提案をするには、祥太はまだ幼く、無力過ぎたし、自分でもそのことがわかっていたのだ。
詳しくは書かないが、映画の終盤で家族の「形」は崩れてゆく。
だがきっと無形の「絆」は残るのだろう。
残るのはなぜだろうか。
それが「家族の絆」だったからだろうか。
「血は水よりも濃い」という言葉がある。そりゃあそうだ、水の代わりに血なんか飲んでたら大変なことになる。不味そうだし。
という話ではなく、血の繋がりはありがたく、またありがたくなくとも断ち切り難い、非常に強い絆であるという意味で使われる言葉だ。
通りすがりのかりそめの縁を仮に「水」とするならば、それ以上の親密な関係は水より濃いものになりがちだろう。
特に「家族」であろうとするとき、あるいは家族でなくとも強い絆を結ぼうとするとき、その縁は「血」を至上として、「人造血液」のようなものを目指すべきなのだろうか。
私個人の感じ方としては、そうは思わない。ジュースやお茶を目指してもいいし、もっとドロドロしたカレーやシチューでもいい。逆に、ミネラルだの電解質だの「美味しい水」的な要素すら取り去って純粋なH2Oを目指したっていい。そういう自由を心に隠し持つ人と、できるものなら親密な関係を築きたいと思う。
だがそれとは別に、気になるのは本作に描かれた家族だ。
彼らは「人造血液」を目指していたのだろうか。目指していたからこそ、「血の繋がった家族以上」とも見える絆、血液よりも高性能な血液のようなものを得たのだろうか。それとも初めから血液という概念からは自由だったのだろうか。
社会通念からは自由に見える彼らだが、それに対する反発は垣間見える。「もの」や「縁」の、「本来の」所有者たちがそれを大切にせず、所有権を手放そうとしないまま実質は「捨てている」のと同然じゃないか、という怒りを持っている。「血が繋がっているから何だっていうんだ」という気持も当然あるだろう。
安藤サクラ演じる一家の母親・信代が、新たな家族となった少女「りん」の優しい性格に触れて、「親に疎まれて育ったら、普通はあんなに人に優しくできないのではないか」と感想をもらすシーンがある。りんは両親からは虐待されたが、祖母には可愛がられたらしいというエピソードがひとつの答だが、生まれ持った優しい性格とも感じさせる。信代自身も、親との関係が幸福なものではなかったことが示唆されるが、見ず知らずの子どもを、虐待する両親の元に置いておくことができずに家族に迎え(世間的には「誘拐」だが)、可愛がって育てるという優しさを、どうやって獲得したのだろうか。家族以外の良い人間関係もそれを助けただろうが、優しくされたからといって人に優しくできるとは限らない。「血」は「血縁」という意味でも使われるが、生来の、変えようのない性質を表すこともある。どんな境遇にあっても消えることのない、持って生まれた本質的な部分に寄り添い合う関係は、幸福な「血」の関係に似るものだろうか。
いずれにせよ、一家は血縁からなる一般的な「家族」を模して暮らしていた。それは社会に対する一種の皮肉だったのかもしれないが、お互いを、今だけではない、死ぬまで消えない刻印のように結びつける何かをかすかに欲していたとも見える。ちょうど「血」のようなものを。それは、自分たちにひどい不自由を強いてきた世界と相似形の不自由を、互いの中に再生産する矛盾ではないのだろうか。
だが「縁」や「絆」への願いはそもそも矛盾かもしれない。親密な絆は血を志向しなくとも、ジュースやお茶でもいいのではないかと先ほど書いたが、では自分にとって究極に居心地の良い、「生理食塩水」のようなものを求めているかというと、私の場合少し違う。願わくば「血」ほどは生臭くない、少しの刺激と甘さが欲しい。これも、自分に近くあってほしいが他者の介在を感じさせるものであってほしいという矛盾だ。
映画の中の家族を繋いでいた縁は、甘さもあれば酸味や塩辛さも苦味もあり、そしてやはり少し血に似た生臭さがあったように思う。相手を思って「縁」をリセットし、解放するという、天然の「血」なら望んでもなし得ない行為の後にも残る部分にさえ、愛情由来の甘さだけではない生臭さがあった。
一緒にいる時間を幸せに過ごしただけではなく、残酷な形で家族の「形」が消えても、無形の「絆」が残ることを思わせて物語は終わる。
「私は、捨てない。私は、拾う」と決意した時、そこに築く「縁」の濃さと種類が自ずと「血」に似てくるものなのか、そんなことを考えた映画だった。
家から歩いて行ける映画館が潰れては困るが、いつも貸切状態で映画を観たいという矛盾した願望もまた、相当生臭いものだろうが捨てるつもりはない。貸切最高だ。
ホテル暴風雨2005号室は新村豊三さんの映画レビュー『好きな映画をもう1本!』です。こちらの『万引き家族』プラスもう1本!の記事もぜひご覧ください。
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