すべての道はきのこに通ず

おキヌさんとおタマさん

以前にも書いたのだが私はきのこが好きだ。絵の中にもよく意味もなくきのこを描く。

食用のきのこを食べるのも好きだし、食べられないけれど美しいきのこを見に行くのも好きだ。きのこの写真を眺めたり、きのこ知識を仕込むのもエキサイティング。

なぜこんなにきのこが好きになのだろう。思うに、すべての道がきのこに通じていたからではないか。今日はきのこに至る王道邪道抜け道脇道……などについて書きたい。

長雨と野菜ときのこの芽生え

いつからきのこが好きだったかというと、物心ついた頃から食べるきのこは普通に好きだった。

特別な興味を感じた瞬間はなんとなく覚えていて、長雨のため野菜が軒並み不作で価格高騰していた年に「きのこは大豊作である」とのニュースが流れ、「何という不気味な奴らだろう」と感じた、その時のことだ。小学校高学年か、中学生くらいだっただろうか。

なぜ不気味なのに好きになるのかと問われると答はない。後に、野菜だから植物かと思っていたきのこが野菜ではないし植物でもなく、カビと同じ菌類だと知った時にも驚いてますます興味が湧いた。

だがもっと以前からきのこ好きの素地はあったと思う。

あのピアニストときのこ

一昨年逝去された中村紘子さんというピアニストがいる。

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幼い頃、テレビで見る中村紘子さんのことを「毒きのこみたいな人だなあ」と思っていた。なにぶん子供のことだから、「うまいこと言ってやろう」と意図したわけでもなく、中村さんをバカにしていたわけでもまったくない。ただ純粋に、そう思っていた。

だが「毒きのこみたいな怖いおばさんだ」と嫌っていたのかと思わせて事実はまったく逆だ。あの独特のヘアスタイルといい、ショパンを得意とするという評判や小柄で優美な外見からは想像できない豪快な演奏といい、一貫してどちらかというと「カッコいい」「面白い」などの正の感情を抱いていた。

思えばあの頃からきのこへの愛(しかも、毒きのこを含む以上ただの食欲を超越した愛)があったのであろう。中村紘子さんへの好感という大ヒントがありながら長く気づかなかったのは迂闊だった。

読書できのこ

子供の頃よく眺めていた植物図鑑にきのこが載っていた。きのこを植物と勘違いした原因の一つがこれだろう。そこには、「ヒャッポンシメジ」と「センボンシメジ」など名前が紛らわしいだけでなく、写真を見比べても違いがわからない、よく似たきのこが色々載っていた。しかも、一方は無毒で一方は有毒だったりする。まだきのこ愛への自覚はなかったが、面白かった。

また、小学生ごろに始まった推理小説好きは長じても変わらなかったのだが、推理小説といえば毒物だ。意外なことだが、植物性・動物性の毒はわりと見かけるのに、きのこの毒は推理小説にそれほど登場しない。うかつに手を出せない得体の知れない毒物として、自然毒物愛好家にも一目を置かれているのがきのこ毒ではないのかと思われ、書かれていないゆえにますますきのこへの思いが募るであった。

その後「仙人」の異名を取るというきのこ絵マスター、小林路子さんのこの本(著者がきのこにどっぷりとはまりゆくプロセスを描いた名著である)を読み、

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野生のきのこ採りに行ってみたいものだと妄想するようになった。

フリーペーパーもきのこ

絵を描くようになってできた友達、イラストレーターのカワシマミワコさんと話すうち、二人ともフリーペーパーを作ってみたいと思っていたことがわかり、一緒に作ることにした。どんな紙面にしようか相談していると二人ともきのこ好きだともわかり、タイトルは「きのこじま」、コンセプトはとにかくきのこ愛を詰め込むということに決まった。

2007年創刊、なんとあれから干支が一回りしてしまった。こんな感じの小さな折り冊子だ。第四号まで出した。三冊しか写っていないが、第四号が見当たらなかったためだ。

別に廃刊したわけではない。きのこ本、フリーペーパーやZINE、折り冊子、いずれもその後けっこう流行って数を増やしてきたので、先日もカワシマさんと、「オレたちちょっと早すぎたのかもな」などと調子に乗っていたところだ。長雨の後にでもまたニョキニョキと続刊を出したいものだと思っている。

きのこ絵に一目惚れし、髪型を変えてもきのこ

その頃私は、ある人の描いたきのこの絵(きのこがメインではないがさりげなくベニテングダケが描かれていた)にほとんど一目惚れをしたのだが、その後、絵の作者である浅羽容子さんと知り合うことができた。きのこ絵先輩の浅羽さんとは、ホテル暴風雨の連載でもお世話になっているし、今では一緒に遊びに行ったり、会うなり「パーマかけたの?キヌガサタケみたいで素敵」「そっちこそ、髪切った?タマゴタケの幼菌みたいで可愛い」などときのこにたとえて髪型を褒め合ったりするきのこ仲間であり友人である。ひょっとして、はたからは笑顔で貶しあっているように見えるかと思うと痛快だ。我々きのこ好きにとって「キヌガサタケ」「タマゴタケ」は憧れのとてつもなく可愛いきのこである。それらがどんなにステキなものに映るか、絵で説明しようとしたのだが、単に気合の入ったきのこの絵、きのこ好きでない人には何も伝わらないシロモノとなってしまったので、せめてもう少しわかりやすくと、キヌガサタケとタマゴタケをイメージした女の人を描いてみたのがページトップの絵である。

ミュージシャンを捕獲して妄想きのこ派、フィールドへ出る

さて、きのこ仲間が増えたものの野生のきのこに関しては知識がなく妄想きのこ派だった我々だが、ついにきのこの知識と経験が豊富な人を見つけた。

それが誰あろう私のきのこ師匠、うたうやまねこさんだ。名前の通り歌を歌っている方で、オリジナル曲のピアノ弾き語りというスタイルで活動している。「きのこ好き好ききのこ好き〜♪」などという狂った歌ではなく、叙景的な詞をどこか異国のフォルクロアを感じる曲に乗せた歌だ。4月には御茶ノ水のKAKADOというライブハウスでワンマンライブが行われるのでお近くの方はぜひ。

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これまた展示会のオープニングイベントか何かだったと思う。「音楽をやっていまして……」と話すやまねこさんの話のほんのすみっこに「きのこ」が登場したのを聞き逃すことなく、きのこ採りに行きたい行きたいとしつこく言い募ったおかげで、きのこ採りツアーが開催された。うたうやまねこさんはきのこや山菜などの知識が豊富なだけでなく、協調性や集団行動への適性がイカれた面々の引率手腕も天才的で、おかげでとても楽しいツアーだった。以降ツアーは毎年恒例となっている。最近では事情により山には入らず、公園や植物園に「鑑賞」を目的として行くことが多いが、楽しいことに変わりはない。

発見、どの道を行ってもいいという新法則

さて長々と書いたが、私のきのこ愛について皆さんに知って欲しくて書いただけではなく、呆れるほど何を見ても「きのこ」(などの好きなもの)へつながるものだなあという感慨を共有したかったのである。

野菜の値段が上がればきのこ、ピアニストを見ればきのこ。演奏を聴いてもきのこ。本をひらけばきのこ。フリーペーパーを出せばきのこ。絵を描けばきのこ。絵を見てもきのこ。髪型変えてもきのこ。ピアノ弾き語りのミュージシャンが登場してるのにきのこ。

きのこが好きすぎて、なんでも力技できのこに寄せて行っているだけとも言い切れない。中村紘子さんの件などは、きのこ好きをはっきり自覚する10年以上前の話なのだ。

近頃、これはもう「何をやってもいい」のじゃないかという気がしてきた。

万事について何をやっても同じ結果になる、という運命論ではない。「目的よりプロセスが大事」という考え方の自分なりの新解釈と言うのだろうか。ハッキリした目的があるならばそれは大事なことだろう。だが、どの道納得できる場所へ出るまで歩くだけだと考えたら、むしろ目的なんぞ考えずプロセス重視でいいのではないか。

良いものに出会うためには「アンテナを張り巡らせて行動的になろう」的な言説をよく聞くが、旅に出る、イベントを探して参加する、などの積極策ばかりがマイオンリーきのこに通じる道とは限らない。ゴロゴロ寝ながら一年前の雑誌の占いページを隅々まで読み耽るなど、一見無為極まりなく過ごしても、他の人とは違う自分だけの経験が必ず残るのだ。結果つまらなかったとしても、つまらねえなと一日ぶんの汗で湿らせた布団から新種のきのこくらい生えるかもしれない。

そんなわけで、手堅く面白そうなチャレンジを、たまたま降って湧いたつまらない思いつきより優先させたり、それが当然だと信じて疑わないような時、「ちょっと待て」と立ち止まる今日この頃である。どっちの道もきのこに通ずるならば、道程の味わいの濃さを重視した方が良いのではないかと。そして、つまらない思いつきには、手堅い面白さ、見た目キラキラワクワクした道にはない味わいがあるものだ。

話は変わるが、近頃東京では外国からの観光客の姿をとてもよく見るようになった。浅草、上野、明治神宮などは人気の観光地だけあり、ここは本当に日本かと思うほど、知らない外国の言葉が飛び交っている。一方、同じ東京都内であっても、私の住む町などは、観光する場は皆無なため観光客などいない。日本の多くの場所でも、(今後どうなるかは不明だが)まだ海外からのお客さんでごった返したりはしていないかと思う。わざわざ日本に観光に来る人の行きやすい「王道」的場所があるということだ。

さて分子生物学者のエリオ・シャクターさんはその著書「キノコの不思議な世界」の中で「日本に行ったら、何はさておき群馬県桐生市を訪ねるべきである」と言っている(翻訳版が1999年に出版された本だ)。

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「キノコの不思議な世界」:著名な分子生物学者が、キノコの変わった生態や採取法、おいしい料理法はもちろん、古くからの人類や虫とのつきあい、毒やドラッグ、特効薬、「聖なる果実」としての役割、フロイトやジョン・ケージにいたるキノコ狂の「生態」まで、すべてを飽かず語りつくす、ワンダフルな世界への招待状。 (青土社ホームページより)

桐生市といえば、しいたけの人工栽培が確立された地であり、確かに良いところには違いない。今はなき「国際きのこ会館」を訪ねるため行ったことがあるが、交通の便がさほど良くはないないといっても私にとってそこは同じ日本国内、同じ関東地方のことである。だが、わざわざ外国から海を渡って日本まできて、東京や京都などの観光地に目もくれず桐生に行く人もいるのだ。そして「キノコの不思議な世界」はとても面白い。やはりすべての道はきのこに通じると確信させる本である。

「狭き門より入れ」という言葉がある。あれは滅びに至る門は広いが正しい門は狭く、そこに至る道も険しいというメッセージだ。

だがもし狭き門も広き門も同じ場所へつながっているとしたらどうか、というのが本稿の趣旨である。私は広い道を整列して歩くより、そろそろひっそり地下に穴でも掘り始めたい。ゆくあては特にないが、とりあえず北西(桐生市のある方角である)を目指して掘ろうかと思う。そういうのが好きだからだ。


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