経年こそあど化
歳を取ってくると物や人の名前が出てこなくなり、「こそあど」と呼ばれる指示語、中でも「これ」「あれ」「それ」「どれ」の指示代名詞を多用するようになる、というのはよく聞く話だ。
その通りだ、とも思う。一方、本当に「物や人の名前がどうしても出てこない、思い出せない」という理由で指示代名詞を使ってしまっているかというと、一概には言えないのではとの思いもある。
真剣に思い出せば出てくるかもしれないが面倒臭い。自分の使った表現で相手は十分理解するだろう、という信頼というか甘えというか、そうしたものがあっての指示代名詞、というケースも多いと思う。この「自分の表現で相手はわかるはず」という思い込みによる難解な言葉使いは、何も物忘れのひどい年寄りだけの専売特許ではない。自分の仲間内に通じる言葉は世界共通語とでも思っているかのような物言いはむしろ若い人に多いと言われるし、ウチの会社の常識即ち社会の常識と思い込んでいるのか、初対面の人を相手に社内スラング的な言葉を使って話すいい大人もいる。「ホラ、**さんておしゃれ番長じゃないですか」などと、自分の知り合いは全員の知り合いと前提しているのか、誰じゃそりゃ知らんがな、という人物を話題にあげる人なんかもよくいる。その上**さんはその後の会話にはさっぱり登場せず、おしゃれ番長である件は文脈上完全に不要な場合すらあり、「**さんはおしゃれ番長」と心にメモしつつの「そうなんですか」だの「ほほう、番長ともなるとひとかどの人物でしょうな」だののつまらん相槌が壮大な忖度の無駄遣いになったりする。いずれも実によくある事例だ。
ものぐさ系
ゆえに私はこれらは「物忘れ」というより「ものぐさ系」とでも総称すべき、年齢よりはキャラクターに依存する現象と見てきた。「歳を取ると名前が出てこなくて困る」というのも事実ではあるが、それを言い合って確認するのは中年以降の人間にとって天気の話級に万能で手堅い話題であるに過ぎず、挨拶がわりに口にして、途端に忘れる程度のものだ。老化による度忘れの増加についてこの際今は深刻に考えないことにして、「ものぐさ系」について考察したい。
私は意識の上では「ものぐさ系」の流儀が好きではないが、知らず使う言葉に自分のローカリティが表れてしまうことはある。また、異様に狭い「自分と〇〇さんの間だけで通じる変な言葉遣い」などが自然と形成される現象も興味深く面白いと思う。では「ほどほどに広い範囲で通じそうなものぐさ系」のが嫌なのかと考えると、確かに仲間内の符丁や業界用語などを嬉しそうに使うさまは美しいと思わないが、「ほどほど」の線引きがどこなのかは曖昧だ。狭いコミュニティ内全員が承知のことを回りくどく説明するのは無駄だし、広めのコミュニティで「日本語で話す」あたりまで禁じては身動きが取れなくなる、という合理的理由が「ものぐさ系」の背景にあることを理解はしている。また、お互い良く言えば信頼と理解、悪く言えば馴れ合いや甘えで成り立つ関係において、会話で伝え合うものは意味情報だけではない。
例えば、「なんだか、アレだよね」「そうだね、アレだね」なんて会話で交換されるのは「意味」ではない。だが、黙っていては伝わらない何かを確実に交換し共有を確かめているのだ。よって、「ものぐさ系」の会話も、親しいもの同士の間ではむしろ心地良いこともあるし、親しくない人に繰り出されたとてさほど深刻に捉えなくてもいいのではないか(さらに言えば、わけわかんねえ、と思っても、どうにか推測して読み取るとか我慢するとか聞き流すとかの対応でやり過ごして気にしないのが得策と)ある時期までは思っていた。
しかし、「これは何かやばい、とてつもなくやばい」と思わされた、ものぐさ系こそあどの深淵を覗くような事件があった。
もう随分前、両親の元で暮らしていた頃のことだ。
ある日私は荻窪という町へバスに乗って出かけようとしていた。
閑話休題、荻窪とはこんなところ
ここで、ものぐさ系への抵抗勢力としては「荻窪」というローカルな地名を当然のように使うのもどうかと思うので、銀座や六本木や秋葉原、などと比べ全国的に知られるほどの派手さのない東京の地理事情豆知識コーナーを挟もう。荻窪というのは東京都心から西側に少しずれた杉並区にある、駅周辺にほどほどの賑わいを見せる町で、東京都庁のある新宿から西は山梨県・長野県まで伸びるJR「中央線」沿線にあり、地下鉄も通っている。かつて与謝野鉄幹・晶子夫妻、井伏鱒二、太宰治が住み、比較的新しいところでは佐野洋子が晩年を暮らした町として知られている。だがそういう文化の残り香を期待してわざわざ行く人は少ないだろう。駅前には駅ビル「ルミネ」とスーパー「西友」がある。駅すぐ近くに温泉がある(昔は温泉ではない健康ランドだったのが改装して温泉になったので、古い施設の味わいも残っているのが特徴だ)のがチャームポイント、私にとっての荻窪名所は、駅周辺ならば創業六十年を超える「邪宗門」という喫茶店と、日本庭園のある「大田黒公園」。
荻窪が位置する東京の西部は、「渋谷」「新宿」「池袋」などのJR山手線沿線のターミナル駅を起点に、西の方へ向かって、大雑把には中央線と平行に、何本も私鉄が伸びている。これら異なる路線の駅同士を南北に結ぶ鉄道は非常に少なく、南北の移動の手段としてはバスが頼りにされている。私もそうした私鉄の一つの沿線に住んでおり、荻窪へ行くには自宅最寄駅からバスに乗るのが通常であった。
本命、進化型ものぐさ系の話
さて本題に戻ると、私はその時約束の時間に遅刻しそうで焦っていた。駅まで走り、来たバスに飛び乗ろう、と思って家を出た。家を出たところ、急ぐ私をわざわざ呼び止めて、私の母が言い放ったのだ。
「あっちのバスがもし来たら、そっちの方が早いわよ!」と。
頭の中は当然こんな感じだ。
「?????」
だが、まともに取り合っていてはますます遅くなると直感した私は、「合点承知の助」みたいな顔をしてとりあえず走って逃げた。おかげでどうにか遅刻せずに済んだのは幸いだった。
だが今後のためにあの謎の言葉を解読しておくべきだろうと考え、帰宅後母に確認した。当時私の母は中央線沿線方面によく出かけており、私の何倍もバス事情に通じていた。聞くと、駅前から荻窪へ行くバスは二系統あるという。経由地・経路が少し違うもので、仮にA系統とB系統としよう。A系統は荻窪まで時間がかかるが本数が多い。B系統は迂回の少ないルートで早く着くが本数が少ない。来たものに乗る方が早い場合が多いので高確率でA系統に乗ることになるだろうが、もしA系統とB系統がほぼ同時に来るような場合、B系統に乗った方が早く着く。
ということを表現したのが、「あっちのバスがもし来たら、そっちの方が早い」という言葉だったらしいのだ。
わかるわけがない。
少なくとも、一刻を争っている人を呼び止めてまで言うことではない。
「ものぐさ系」の最終進化系と言っていいだろう。会話とは意味だけを交換するものではないのだからものぐさ系も良しとしようとぼんやり考えていた私だが、「意味」の意味を考え直させられたというか、これはやばいと思った。何がやばいかと言えばもう全体にやばいのだが、何より「意味」を伝えるべき場で意味以外しか伝えていないことに気づいていない、もしくは意味を放棄しているところが、明らかに別のステージに行っている別次元の人と感じさせてやばい。実際母は、「そんなんじゃわかるわけない」という(私にしてみれば)まっとうな指摘を、「いやいや何をおっしゃるやら」というような拒絶感みなぎる笑顔でやり過ごした。
意味と意味以外の交換
知り合い同士のリラックスした会話など、意味以外のものばかり交換しても差し障りはないものの、意味の一部くらいは何となく伝え合う会話が最も多いのではないだろうか。
例えば「今朝ドラマで見たけどあの人演技が上手できれいだねえ」と言っている人がいれば、今朝のドラマとはNHKの朝の連続ドラマのことだろうなとまず推測できる。ここから先はうちにテレビがなくまったく見ないので検索で得た知識で書いているが、「演技が上手できれいなあの人」と言われたら、(※2019年2月現在の話題です)おそらくヒロイン役の安藤サクラのことだろう。うん、そりゃあの人は天才だしとても魅力的だ、と話を繋げることが十分可能だ。
だが、言わんとしたのが実はヒロインの母役の松坂慶子のことだったとしても、ヒロインの夫役の長谷川博巳だったとしても大きな支障はない。ドラマを見たこと、出演者の演技の上手さと美しさに感動したこと、それだけわかれば上等というもので、意味が重要な場面でないにも関わらず、「意味」のいくばくかは伝わっていると言える。
しかし意味が大事な局面だって多い。考えてもみてほしい。
「あの論争だけど、私は断然あっちよりこっちだ」
などと言われたら、「何か論争が起こっている」らしいという面倒な情報、本人は立場をはっきりさせているようだがどっちかわからないという厄介な事態しか伝わらない。意味以外しか伝えない上、それが不穏な効果を与えている。「きのこの山」と「たけのこの里」どっちが好きか、という(日本を二分する大論争には違いないものの)平和な話に過ぎないのかもしれないが、それにしてもきのこ派なのかたけのこ派なのか、そこをハッキリさせてほしい。これは意味が大事な局面だ。ちなみにどちらも株式会社明治が製造販売するロングセラーチョコレート菓子のこと。様々なグッズにもなっている。私はきのこ派だ。
あるいは、
「コーヒーはホットにしますかアイスにしますか?」
と聞かれた時に。
「こっちでお願いします」
などと、どこを指差すわけでもなく答えるのはもう、何も言わない方がましというものだ。ここでは意味の選択以外何も求められていないのである。
意味境界の越境
というような経緯で、「経年こそあど化」の一部を含む「ものぐさ系」に関して、私はちょっと意識を変えた。意味を伝えることを放棄している、意味の交換に重きを置かなすぎる、といったステージに入っている人のことは、「ああ、例のものぐさ系か」と軽く聞き流すのでなく、「もしかしたら異種生物かもしれない、新しいコミュニケーション方法を覚えたり考案しないと平和的共存が難しいかもしれない」と用心するようになった。
もし自分が老化などで意味が伝わっているかの確認機能に問題が生じて意味境界を越境し、意味を求められる場面で「あれがこうだからこう」などと言うようになったら、「いや〜最近物忘れがひどくて」程度の挨拶でごまかしている場合ではないので深刻に警戒すべきだと思う。もしくは異種生物に変化する時が来たということだから、長年続けた「進化型ものぐさ系」の人々の観察がいよいよ本当に役に立つかもしれない。せめて役立てたい。
恐るべし、こそあど大明神
こんな話を友人にしたら、
「わかる、うちのオカンも『こそあど大明神』だから。まあ最近は私が襲名しそうだけどね、アハハハ」などと笑っていて、私は条件反射の速さで
「大明神か、じゃあしょうがねえな」と返答したのだったが、
大明神だからしょうがないと当然のように返したことが、二重の意味で「ものぐさ系」であると後で気づいてハッとした。
ここでまた、ものぐさ系への抵抗勢力としては詳しく解説せねばならない。
なぜなら私は、自分の面白いと感じた事柄を同様に面白いと感じる人に伝えたくて書いているが、それが地域や年代など目に見えるわかりやすい属性を共有する人とはまったく限らないと思うのだ。日本語しかろくに操れないので止むを得ず日本語で書いているが、もし語学堪能だったら各国語で書きたいところで、気持ちとしては「日本語はわかるが日本のことはよく知らない」人にだって伝わるように書きたい。ローカルではなくグローバルな話題を選びたいという意味ではまったくなく、ローカルな話題を、どれくらいのレベルのローカルな話題なのか見当がつくように書きたいのだ。
というわけで「大明神をしょうがないとするのが二重の意味でものぐさである」理由を述べよう。
まず一重目の「ものぐさ系」要素は、「大明神だからしょうがない」というのが、深いレベルに刷り込まれたローカルな(どれくらい広く分布するか不明だが日本的な)価値観で、仲間内の符丁みたいなものではないかということだ。「大明神」とは神のこと、もちろん日本の神のことである。専門的なことはわからないが、日本の神は少なくともキリスト教的な全能にして唯一の神とはまったく違い、良くも悪くも人間を超えた存在をとりあえず「神」と呼んで敬っておき、恩恵に授かったり難を逃れたりしようというものだ。自分がひどい目に合わせた人間の「呪い」を恐れて神として祀ってしまえという事例も多数(代表例は天満大自在天神となった菅原道眞。左遷されて失意の死を遂げた後、政敵の藤原氏が続々と怪死するなどいくつもの変事が起こった。これが道眞の怨霊のおかげとされ、鎮めるため神と祀られた)、都合の悪い現象の原因を人間界の境界の外に置く方便として機能する面が少なからずある。大明神にまでなってしまってはしょうがない・手が出せない、というこのローカルな価値観・ニュアンスを、友人と共有しているかどうかがわからないにも関わらず、「当然コンセンサスの得られたもの」として会話に織り込むのはものぐさである。ふざけて「こそあど大明神」という表現を選ぶセンスからして友人もそうした価値観を共有しているのはまず間違いないわけだが、この時の私が無意識だったことが問題であり、「悪いものぐさ系」たる所以なのである。
そして二重目の「ものぐさ系」要素は、上述した「触らぬ神に祟りなし」、むしろ「臭いものに蓋」的に神という概念を使ってしまう感覚それ自体が、「ものぐさ系」の祖みたいなものではないかということだ。「大明神じゃあしょうがない」とは、「神となってしまったのだからそれなりの問題として対処せねばななるまい」ではなく「もうめんどくさいから神ってことにして祀り上げて放っておこう」に近いニュアンスである。これがものぐさでなくて何だろうか。
「それはほら、アレでしょう」で何となく互いにわかった気にして済ませる、「アレ」とは、限りなく日本的な神の領域にいるものに近い。
異種生物に変身する時に備え、「こそあど大明神」はとりあえずぞんざいに祀るのではなく、慎重に観察しつつ時々供物でもしておこうと思った次第。
冒頭の絵について。こんなこそあど大明神と相対してもわけがわからないし間が持たないしで、そこにスマホがあれば人は見るのではないかと思ったが、考えてみれば現代においてスマホの方が神みたいな感じだ。スマホ大明神。
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