知られざるアンデルセン<2> 晩年の名作『大きなうみへび』から感じられる未来への思い

大きなうみへび表紙 illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟

この記事は「知られざるアンデルセン」シリーズ第2回です。
第1回はこちらです。

変人・アンデルセンの描いた死と幸福

アンデルセンが童話の世界で「普遍的なもの」を追求したと前回書きましたが、今回はその続きです。

私はこちらの、「完訳 アンデルセン童話集(高橋健二訳・いたやさとし画)」全8巻を読んだのですが、このシリーズは発表年代順に約150作品が収められていて、物語を楽しむだけでなく「アンデルセンを知る」のにぴったりの本でした。

『人魚姫』『マッチ売りの少女』などの有名作品から私がアンデルセンとその作品に持っていたイメージは、「美しくも悲しい物語」「残酷な運命の仕打ちにあってなお輝く美しい魂のお話」「美しいものにこそ美しい魂が宿るという信仰に近い偏見」などです。これはこれで間違ってはいなかったし、「普遍性の追求」とも整合します。

ですが、このシリーズ8冊を通して読むと、アンデルセンはそれほど単純な求道者ではないなと思えてきました。性格的にも、浮き沈みの激しいところがあり、ずいぶんな変わり者だったようです。

一次資料は不明なのですが、Wikipediaによれば「極度の心配性で外出時は非常時に建物の窓からすぐに逃げ出せるように必ずロープを持ち歩いた」「眠っている間に死んだと勘違いされて、埋葬されてしまった男の噂話を聞いて以来、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していた」などとあります。また、自分の容姿が醜いというコンプレックスがあったのに(だからこそか)美しい人にばかり恋しては失恋していました。しかし意中の人には自分の生い立ちや失恋の辛さを書き綴った自伝を送りつけていたというので、振られた理由を容姿だけに求めるのは無理があるというもの。
それにしても見てみたいものです、アンデルセンのマイロープ。何メートルくらい持ち歩いていたのか。重いんじゃないか。生きたまま埋葬される恐怖に取り憑かれていたといえばエドガー・アラン・ポオもそうですが、アンデルセンとポオはほぼ同年代。ひょっとすると、この時代に流行った神経症であって、さほど珍しくはなかったのか?

そんなことはさておき。
アンデルセンの追求した大きなテーマのひとつが、「何が人を救い幸福にするのか」という、古くていまだに結論などない、普遍的な問いでした。それに対し、いくつかの作品の中で表現された答えは、「一瞬の中にも封じ込められ得るほどはかない、しかし時間や時代で変質されることのない美や希望、それを宿した精神性」である、というものではないでしょうか。

たとえば『マッチ売りの少女』で、失意と寒さと飢えの中、少女はマッチの炎の中に臨終の夢を見ます。あたたかい暖炉の火、美味しそうなご馳走、優しかったおばあさん。少女は少しの曇りもない気持ちでその輝く夢をひたすら求め、手を伸ばします。そして最期のとき、手を触れられた、迎え入れられた、と信じて幼い生を終えます。現実の側から見れば酷い、かわいそうな話でしかありません。ですが、辛い現実の中で、あの世界に入っていきたい、と心から願える夢の世界を持てるのは、持てないよりは断然幸せなことです。最後にその世界に手が届いた、と信じられるならばなおさら。挫折と失意を繰り返した青年時代、アンデルセンは死によって幸福になる(死によってしか幸福になれない)物語を多く残しました。それらは現実世界への抗議だったのかもしれません。アンデルセンの童話の黄金パターンのひとつといえます。

死後、気になるのはどっち?

ですが、アンデルセンの魅力は普遍性を追求しながら揺れ動くところにもあり、揺れ動くところに逆に普遍性が宿るような奇妙さがまた面白いのです。

アンデルセンの、相反するものを内包して「揺れ動く」魅力は随所に見られるのですが、最初に若い時の作品『マッチ売りの少女』を例にして「死」と「幸福」について考えましたので、次は、死と幸福を軸にして晩年の作品で見られる変化に注目してみます。

アンデルセンは存命中に非常に高い評価を得て文名を上げ、老若男女に愛され尊敬された作家ですから、それを反映してか、後期にはだんだん「死」以外の方法で幸福になるハッピーエンドの物語も登場します。

ここで私が面白いなと思ったのは、幸福になる方法よりも、主人公の死を描いた物語において、死後の「どこ」に心を向けているかが変化していることです。

『マッチ売りの少女』の結末で焦点が当たるのは、死んでしまった優しいおばあさんと再会する少女の魂です。命のなくなった少女の体とともに残された現実世界のことは、本当にどうでもいいという感じです。

ですが、晩年の作品ではそこが変わってきます。たとえば『ほうき星』という作品。何十年に一度やってくる彗星のことが描かれます。ほんの小さな子どもの頃にほうき星を見た少年が、長じて皆に愛され敬われる校長先生になります。そして、人生の最後に、もう一度めぐってきたほうき星に出会う。ここでは、校長先生の死後のことは「たましいがなつかしい人たちに迎えられた」以外に、具体的なことは書かれていません。ですが、『マッチ売りの少女』と比べると、今までの人生の思い出、だけでなく、長く暮らしたこの世界、自分の死後も連綿と続くだろう世界への愛着がほんのりと感じられます。人間の一生とはスケールの違う長い時間をかけて、この先何度もやってくる「ほうき星」というモチーフを選んだこと自体に、その愛着が表れていないでしょうか。校長先生は、生きて再び、まためぐってくるほうき星に出会うことはありません。でも……と何かが余白や行間から滲み出るような。

さて、同じく最晩年の異色作『大きなうみへび』ですが、死後の魂の話はさっぱり出てきません。そのかわり、人間の知恵がこの先どのように姿を変え、大きくなるのか、それは相容れない古い世界とどう調和するのか、しないのか、などなど、性懲りもなく前へ進む人間界、つまりアンデルセンの死後も続くこの世界への愛着をユーモアを交えて描いたものに思えます。
歳月が人に与える影響はほんとうに様々ですが、悲しく美しい童話で知られる「あの」アンデルセンが、歳月を経て描いた最晩年の作品たちを読むことは、いろいろな意味でとても面白いことです。

晩年に、自分の後に残される世界への愛をさりげなく書いたアンデルセンは、幸福な人だったのでしょう。『マッチ売りの少女』のような幸福ではなく、『ほうき星』の校長先生のように。あるいは、『ほうき星』の校長先生の最後に『マッチ売りの少女』のような憧れを抱いて臨終の夢に見た、というねじれた幸福だったとしても、きっとアンデルセンにとって幸福の意味が変わったり、広がったりしたのです。その想像が読者を少し幸福にします。

さて、「人魚姫」や、うみへびに遭遇する生き物たちなど、キリスト教では「魂がない」とされる人間以外のものをえがく時、熱心な信仰者だったというアンデルセンはどんな思いを込めたのか? そして『大きなうみへび』でアンデルセンが予言した2020年代、などについて、また次回以降に書きます。よろしければまたお付き合いください。

『ほうき星』『大きなうみへび』は、『完訳 アンデルセン童話集』(高橋健二訳・いたやさとし画)では最終巻の第8巻に収録されています。

『大きなうみへび』文学フリマ東京37に出品します

そしてページトップの写真は限定版『大きなうみへび』。丸尾靖子さんによる美しい装丁の文庫サイズ上製本。きたる2023年11月11日に開催される「文学フリマ東京」に連れて行きます。

裏表紙まで海の中の絵がつながっています illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟

アンデルセン作『大きなうみへび』については、次回に続きます。どうぞお楽しみに!

次の記事はこちらです↓

知られざるアンデルセン<3> 動物、植物、人形、妖怪(?)「たましいのない」ものたち

(本記事は、以前「雨梟の多重猫格アワー」に掲載した文章を再編集したものです)

「ホテル暴風雨」(ブース番号 うー40)として11月11日(日)の 文学フリマ東京37 に出店します! 会場は「東京流通センター」、新刊などの情報はX(旧Twitter)で告知します。オーナーの風木一人か斎藤雨梟、あるいは両方が店番をしています。はじめましての方も気軽にお声がけください。なお、文学フリマ東京は規模拡張に伴い、来春開催回以降の入場有料化が決定しています。「気になるので、ちょっと試しに行ってみたい」という方、最後の無料開催である今回がおすすめです。
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