なにわぶし論語論第39回「籩豆(へんとう)の事は、則ち有司存す」

曾子 疾(やまい)有り。孟敬子(もうけいし)之を問う。曾子言う。曰く、鳥の将(まさ)に死なんとするや、其(そ)の鳴くや哀し。人の将(まさ)に死なんとするや、其の言や善(よ)し。君子 道に貴ぶ所の者三あり。容貌を動かしては、斯(すなわ)ち暴慢に遠ざかる。顔色を正しくしては、斯ち信に近づく。辞気を出しては、斯ち鄙倍(ひばい)に遠ざかる。籩豆(へんとう)の事は、則ち有司存す。(泰伯 四)

――――曾子が重病になった。猛敬殿が見舞いに来られた。曾子が言われた。「鳥がまさに死のうとするとき、その鳴き声は哀しいものです。人がまさに死のうとするとき、その言葉は良いものです。(あなたのような、人の上に立つ)君子が人の道として尊ぶものが三つあります。容貌を整えれば、人から侮られません。表情をきちんとしていれば、人は騙そうとしません。言葉遣いを正しくすれば、卑しい言葉を受けません。儀式の手順など細かなことは、専門の担当者に任せれば良いのです。――――

曾子は孔子の弟子の中でも最も有名で、後世にも影響の強い人である。籩豆は、祭礼に使う器のこと。
今回の訳は加地伸行氏の訳に従ったが、「暴慢に遠ざかる」「信に近づく」「鄙倍に遠ざかる」を、君子が心がけるべき行動とする解釈もあるようである。

いずれにしても、人の上に立つ者にとっては、専門知識、技術などは問題ではなく、人格こそが大切であるという内容だ。
これはずいぶん極端な主張に聞こえる。孔子も同様に「君子は多能である必要はない」(子罕八)と言っているが、実は同じ節で孔子は自分自身について、「私は若い時貧しかったから、いろいろな仕事ができるようになった」と述べている。
もちろん孔子が儀礼や歴史について博識なことは有名である。にも関わらず孔子は、個別の知識・技術を軽視する姿勢を見せている。

さて、人の上に立つ者は、人格さえあれば知識や技術は不要、というのは本当だろうか。
本当かどうかは措くとして、そういう考え方が日本の文化に受け入れられたのは事実だろう。有名な例としては、司馬遼太郎の描く東郷平八郎の姿が挙げられる(*1)。作戦については若い参謀を信頼し、自分は余計な口を出さずに泰然として指揮をとる、というものだ。
ただし司馬は、同様に作戦は参謀に任せっきりの司令官、乃木希典については批判的に書いている。また、半藤一利は、史料に基づき、東郷は自身でよく作戦を検討しており、「参謀の上にただ乗っかっていたわけではな」かったとしている(*2)。

人の上に立つ指導者に最も求められるのは、調整力だろう。調整というのは、単に異なる意見の間をとるということではない。各々の意見を聞き、状況に照らして最も良い意見を採用する、あるいは議論を促進し、さらに良い考えを出させるということだ。
一つの意見を採用すれば、当然不満を持つ者もいるだろう。そういう者がいても、「まあ、この人が言うなら仕方ないか」と思えるのが、良いリーダー、調整力のあるリーダーということだろう。
そこで必要となるのはいわゆる信頼だが、信頼を得るのに、個別の知識や技術は関係ないだろうか。細かな点は担当者に任せるにしても、問題を理解するためには、ある程度の知識が必要だろう。むろん経験がなくても、「能をもって不能に問う」(泰伯 五)姿勢で素直に学んでいれば、知識も信頼も得られるのだろうが。

*1 司馬遼太郎 「坂の上の雲」 文春文庫

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*2 半藤一利 「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」文春新書

「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」半藤一利

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