<Side A –Poem–> 刑事ブレンダのジレンマ
街にはびこる犯罪者たち
法の裁きを受けさせる
たかが女と見くびらないで
悪い奴らは逃さない
抵抗したって制圧する
力には力、銃には銃で
私はブレンダ
私は刑事
私は法の執行者
人通りのない裏通り
白昼堂々腰から銃を
下げて歩いてる二人組
これを見逃す私じゃない
止まりなさい、警察よ
銃を構えてバッジを掲げ
私はブレンダ
私は刑事
私は法の執行者
それでも二人は止まらない
抵抗なんかやめときなさい
市警トップの射撃の腕が
どんなものだか見てみたい?
隔てる距離は30ヤード
この距離ならば外さない
私はブレンダ
私は刑事
私は法の執行者
誤解しないで、刑事さん
これはおもちゃのピストルさ
隔てる距離は20ヤード
この距離ならば外さない
だけど危険の証拠もなしに
発砲するのは規則違反
私はブレンダ
私は刑事
私は法の執行者
頭の中に警報が鳴る
もしも二人が息を合わせ
同時に銃を抜いたなら
私は二人を倒せない
奴らが銃に手を出す前に
私が先に撃ったなら
それは殺人? 正当防衛?
隔てる距離は10ヤード
銃を持つ手に汗がにじむ
私はブレンダ
私は刑事
私は法の執行者
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<Side B –Essay–> ルールと判断について
人が何人か集まれば、必ず意見の相違というものが出てくるものである。話し合いで折り合いがつけば良いが、うまくいかないと、物事が前に進まない上に人間関係にしこりまでできるから、たいへんである。
落語の世界であれば、八つぁんと熊さんの間に意見の相違があれば、ご隠居のところへ行ってご意見を伺う、ということになる。ご隠居はとにかく偉い人である。なんといっても長生きしている。八つぁん熊さんの頃は年長者が尊敬されたから、それだけでも偉い。しかもご隠居は物知りであることは周知の事実だ。したがって、ご隠居の判断には大変な権威がある。
会社の中であれば、この役割を担うのは、まずは課長などの管理職であろう。ところが課長には長屋のご隠居ほどの人望はない。そこで頼りにするのは、社則や法律などのルールである。そもそも課長とか部長という地位も、社則によって決まっているものだ。したがって、課長もルールに従って判断を下すことが大切である。ルールに反した判断をすれば、誰かから(部下か、上司か、あるいは外部から)叩かれることになる。「コンプライアンス」などという言葉が流行している昨今、ルールを守ることは、ますます重要さを増していると言える。
しかし残念なことに、部長さんや課長さんが判断しなければならない事柄の多くは規則に書いてないから、自分で判断しなければならない。そして、自分の判断を誰かが不満に思えば、その不満は自分に向けられる。「規則だから」という言い訳は通用しないのである。
先日、たまたま私はある法律関係の仕事をしている人の話を聞く機会があった。失礼ながら私はそれまで、法律屋の仕事というのは、代数の問題に公式を当てはめるように、いろいろな問題に対して既存の法律を当てはめて答えを出すものだと思っていた。ところが、その法律屋氏曰く、「法律なんて、ほとんど何も書いてありません。家に例えれば、柱と梁だけみたいなものです。そこで、必要に応じて壁や床や天井にあたる部分を作るのが、我々の仕事なのです」。
なるほど。この巨大な人間社会では、実に様々なトラブルが起こる。その多種多様な事例にいちいち対応するような条文を書いていたら、六法全書の厚さが地球の半径を超えてしまう、というのは今私が考えた出まかせだが、そんなに書けないということはよくわかる。法律に書ききれない細やかな判断をするために、法律家という専門職がいるわけだ。
さて、ニュースでは、大きな社会的事件が起こるごとに、「ルールの欠陥」「マニュアルの不備」ということが言われる。しかし、マニュアルに全ての可能性を書き込んだら、厚さが地球の半径を超えてしまうのである。誰かが、マニュアルに書いてない判断をしなければならないのだ。しかも、マニュアルが増えれば増えるほど仕事がやりにくくなるというのは、何らかの組織で活動したことのある人なら、誰でも知っている事実である。マニュアルを増やすより、判断のしやすい環境づくりをすべきだろう。では「判断のしやすい環境」とは何だろう。それがわかれば誰も苦労はしない。だが、判断のしにくい環境ならある程度わかる。本来関係のない誰かの意向を気にしなければならない環境。小さな失敗に対して過大な結果責任を課せられる環境。感情的に孤立した環境。疲労やストレスの蓄積する環境。
そういった要因を一つずつ取り除けば、結果として「比較的」判断のしやすい環境ができるだろう。あくまで「比較的」だが。
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