電車 居眠り 夢うつつ 第46回 ブックレビュー「脳と心の正体」

前回私は、「心とは脳の活動である」と断言した。ほとんどの科学者はこの意見に同意するだろう。心身二元論を唱えるような科学者も少しはいるかもしれないが、そんなごく一部の変わり者の言うことは無視しておけば良い。
しかし、その心身二元論を主張するのが、神経科学の歴史に金字塔とも言える大きな業績を残し、どの教科書にもその人の研究が図入りで紹介されているような人物であるとすると、話はちがってくる。

ワイルダー・ペンフィールド(1891-1976)は、カナダの脳神経外科医である。てんかんの外科手術を数多く手がけた。てんかんは、脳の一部が異常に活動することによって起こる。薬による治療もあるが、薬が効かない場合は、てんかんの「震源地」を外科的に切除する。手術時には、どこを切除すべきかを確かめるために、脳に電極を刺し、電気刺激をして反応を確かめる。ペンフィールドは、大脳皮質の様々な場所を電気刺激し、場所による機能の違いを明ら
かにした人である。
そのペンフィールドが、晩年に書いた著書「脳と心の正体」(塚田裕三、山河宏 訳、法政大学出版局)の中で、心と脳は別物であると主張しているのだ。

「脳と心の正体」ワイルダー・ペンフィールド著

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最大の根拠は、彼の行った多数の電気刺激の結果だ。大脳皮質の一部を電気刺激すると、患者の手や足が動く。しかし、患者は「動かしたいと思った」とは言わない。声を出しても、「私が声を出したんじゃありません。先生が私から声を引き出したんです」。つまり、脳を電気刺激しても、「私がやった」という感覚は生じない。そのような主体感のもととなる「心」は脳とは別にある。

実は、私も大学院生の時に同じような疑問を持ったことがある。電気刺激して、「体が動いてしまう」のではなく、「動かしたくなる」脳の場所があるのだろうか。当時は、文献を調べても、知り合いの医者に聞いても、そういう例は見つからなかった。だが、昨年読んだ論文には、まさにそのような例が書かれていた。
その研究では、てんかんの外科治療のために前帯状皮質という脳の領域を電気刺激したのだが、ある部分を刺激すると、患者の多くはベッドから起き上がろうとした。その時に患者に訳を尋ねると、「もっと楽な姿勢を取ろうと思った」とか「どこかへ行きたくなった」などと答えたそうだ。
つまり、脳の場所によっては、単純な電気刺激によって意思が誘発されるのだ。もっとも、この論文は2018年に出版されているので、ペンフィールド先生がご存知なはずはない。

ペンフィールドが知っていたはずのこともある。たとえば、フィニアス・ゲージ(1823-1860)の症例だ。
ゲージはアメリカの鉄道技術者であったが、ある日爆発事故に遭い、長い鉄棒が頭に突き刺ささり、脳を大きく損傷してしまった。事故後のゲージが示した症状は、単純な運動や感覚や記憶の障害などではなかった。「彼の知的才覚と獣のような性癖との均衡というかバランスのようなものが、破壊されて」しまい、「彼は気まぐれで、礼儀知らずで、ときにはきわめて冒涜的な言葉を口にして喜んだり(こんなことは以前の彼には無かった)、同僚にもほとんど敬意を示さず、彼の欲望に拮抗するような制御や忠告には我慢ができず、ときにはしつこいほどに頑固で、しかし気まぐれで移り気」であり、「彼の友人や知人からは『もはやゲージではない』と言われたほどであった。」

こういった症例や、麻薬や向精神薬を含む様々な薬物が心に及ぼす影響を考えると、やはり私には、心とは脳の活動であると思われる。
なお、ペンフィールドは、脳の中に心と密接に結びついた場所(「最高位の脳機構」)もあると言っている。彼の意見ではそれは「大脳基底核を含む上部脳幹」と言うことで、それはそれで非常に興味深い意見だ。ではなぜそういう脳領域の活動そのものが心ではなく、心は別にあると言うのだろうか? 少し長いが、引用してみる。

「アリストテレスが言ったように、心は『肉体に結びつけられている』そして、最高位の脳機構が障害やてんかん性放電や麻酔剤のために働きを止めると、心は認められなくなる。それどころか、熟睡中も心は認められないのである。
心はこうして姿を消している間どうなっているのだろうか? 一元論に従えば、心は脳の働きに過ぎないのだから、認められなくなった時には存在していないことになる。心は最高位の脳機構が働きを始めるたびに作り直されるのである。」

これはさすがに苦しい。まず、睡眠中に脳が活発に活動していることはよく知られている。マウスを使った実験では、睡眠中の海馬の活動は、その前の覚醒時のマウスの行動を反映している。また、あるニューロン集団が一時的に活動していなくても、記憶はシナプスの伝達効率の変化として残る。脳が活動を中断しても、心の連続性は保たれるのだ。

なお、現在のところ脳と独立した心の存在を示す科学的な証拠は何もないが、それを否定する証拠もない。一般的に言って、何かが無いことを証明するのは非常に難しい。ただ、いくつかの仮説があるなら、最も単純な仮説を支持すると言うのが科学の常道だ。ペンフィールドの言うように脳と独立した心があるなら、心がどこにあるのか、心と脳がどのように通信するのかを明らかにしなければならない。
そういう訳で、私はペンフィールドが「脳と心の正体」の中で主張する心身二元論に全く賛成しないが、それでもこの本は、読む価値のある素晴らしい本だと思う。最後に、本書の最終章の中から彼の言葉をふたつ引用して終わりたい。

「人間は誰しも、自分の生き方と個人的な信条を自分自身で選ばなければならない。これは科学の助けを求めることはできないのである。私も長い間自分なりの信仰を持ち続けてきた。そして今、科学者もまた誰はばかることなく霊魂の存在を信じうることを発見したのだ!」

「実際、人がそれによって生き、死んでいく信仰を、科学の名においてとやかく言う権利はどの科学者にもない。脳について得た知識を報告し、心の働きに関する合理的な仮説を提示する−それが私たちにできるすべてである。」

(by みやち)

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