なにわぶし論語論 落ち穂拾い2の2

定公(ていこう)問う、君 臣を使い、臣 君に事うること、これを如何、と。孔子対(こた
)えて曰く、君は臣を使うに礼をもってし、臣は君に事うるに忠をもってす、と。
(八佾 十九)

――――定公(魯の国王)が質問された。「君主が臣下を使い、臣下が主君に仕えるとき、どのようにすべきか」。孔子はこうお答えした。「君主は臣下に対し礼を尽くし、臣下は君主に対して忠実であることです。」――――

孔子の時代、身分の区別のあることは、あまりにも当然のことであった。しかし、君主といえども臣下に対して好き勝手をしてはいけない、礼を尽くさねばならない、というのが孔子の主張である。

孔子の生まれた魯国では、君主(国王)の下には、三桓氏(さんかんし)と呼ばれる公族(王と血縁のある氏族)があった。その下には、大夫、士からなる官僚集団がいて、実際の行政を担った。
まあ、実際には、三桓氏が実権を握って王を操っていたり、その三桓氏の力を封じようと、大夫時代の孔子が様々に画策したりと、複雑な関係があったようだが、表向きは、君主―公族―官僚―国民という直線的な序列があった訳である。

さて、時代下って現代の日本では、この直線的な序列の端と端が繋がって、円環状になっているとは考えられないだろうか。
民主主義というのは、文字通り、国民=君主ということだ。この国民=君主の意思を政治に反映するために、政治家(議員。世襲ではないことになっている)がいる。その議員の指揮のもと、科挙ならぬ公務員試験で選抜された官僚が行政を担い、国民(=君主)を統治している。つまり、序列がジャンケンのように円環状になっていると考えて良いのではないだろうか。

君主が気分次第でしょっちゅう命令を乱発していては政治が成り立たない。だから、慎しみ深い君主は、数年に一回の人事(選挙)でのみ意思を表し、あとはあまり口を出さない。
だがもし、人事権(選挙権)すら行使しなかったら、それは、やる気のない君主が「余は難しいことは嫌いじゃ。その方らで良きに計らえ」といっているのと同じではないだろうか。
そのあとはおきまりのパターンで、悪い家老が越後屋から菓子折りを受け取って、「そちも悪よのう・・・」
えっと、なんの話だっけ? 今回は、この辺で。

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