このシリーズも、今回で18回になった。当初から書きたいと思っていたテーマはいくつかあった。
1つ目は「『認知症』を病気と捉えなくても良いのではないか」ということ。
2つ目は「『認知機能』というのは様々な機能の集合だ」ということ。
この2つは既に書いた。
3つ目は「認知機能というのは『有る・無い』とか『正常・異常』で二分できるものではない」ということ。
これは少し書いたが、また後日、別の角度から書いてみたいと思っている。
一つ、ずっと書きたいと思いながら、手をつけられないでいたテーマがある。
すごく単純なことなのだが、いろいろなことに関係していて、どれから書くのが良いか、わからなくなる。考えているうちに、なんだかくだらないことにも思えてくる。でも、思い切って書くことにした。長くなりそうなので、2、3回に分けて書くつもりである。
書きたかったことというのは、「機嫌が良いということがとても大切なのではないか」ということだ。
「幸せ」と言っても良いが、「機嫌の良さ」の方が似つかわしいこともある。「機嫌が良い」というのは(あるいは「幸せ」にしても)、なんだかふにゃふにゃした、それこそ年寄り子供にお似合いの言葉のようだが、実はこの言葉は、「生産性」「発展」「向上」といった、立派な言葉たちの表す価値観に対抗できる、いやそれ以上の大きな価値観を体現しているのではないか、そんなことまで考えてしまう。
前回の内容に引きずられて、相模原事件について書く。
あの事件では、被告と被害者の遺族の主張は全く噛み合わなかった。噛み合わなさすぎて議論にさえならないほどだった。
双方の主張を私の言葉でまとめれば、こうなる。
被告:「障害者は生産性がなく、彼らを生かすために家族や社会の生産性も奪われ、結果として生活破綻などの悲劇が起こる。悲劇の原因である障害者を排除すべきだ。」
遺族:「障害者である私の家族がいてくれるおかげで、私は幸せに生きられる。生産性のない人間にも機嫌良く生きる権利はある。」
拠って立つ価値観が全く違うのだから、議論のしようがない。
たいていの人は、「生産性」と「機嫌の良さ」の両方の価値観を持っている。そのうち「生産性」の方は客観的に定量化して比較することが容易である。
一方の「機嫌の良さ」や「幸せ」は、定量化することが困難だ。心理学者の常套手段で「あなたの今の機嫌は、10点満点中の何点ですか?」と聞けば、数値化できるが、私の8点とあなたの8点が同じ意味だという保証はない。
ブータンの王様はGross National Happiness(GNH)という概念を提唱したが、GNHを客観的に示してはいない。
客観性は現代文明の核である。だから、客観化しやすいものが重視されるのは仕方のないことだ。介護に関わっていても、しばしば客観的な「生産性」や「効果」にばかり気を取られて、「機嫌の良さ」を忘れてしまうことがある。
肝機能検査の数値を上げるためにはどんな食事がいいか、認知機能を維持するにはどんな活動をすれば良いか、筋肉量や骨密度を維持するにはどんな運動が役立つか。
もちろんそういうことは大切なのだが、最終的な目的が、高齢者本人と周囲が機嫌良く生きることだということを、忘れないようにしたいものである。
と言いながら、しょっちゅう忘れてしまうのだが。
(by みやち)
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