心・脳・機械(3)感情が行動を起こす

科学は心の様々な機能を扱い、中でも感覚知覚とか記憶とかルールの切り替えとか、いわゆる「知的」な機能の研究が注目されることが多い。ところが日常会話で「心」という言葉を使うときは、感情、共感といった、いわゆる「情緒的」な機能を指すことが多い。
「知的」と「情緒的」という言葉を並べると、なんとなく「知的」の方がエライような気がする。「知的な人」というのは明らかに褒め言葉だし、「君の言うことは情緒的だ」と言われたら、誰も褒められたとは思わないだろう。

どちらがエライかはさておき、人や動物に行動を起こさせたり、行動を止めたりするのは情緒・感情(学者は「情動」と呼ぶ)だろう。「理性的に行動する」とか「論理的に判断する」などと言うことがあるが、理性だの論理だの知性だのは、行動に関しては、補助的な役割しか果たさないと言って良いだろう。(もうひとつ、癖あるいは習慣というものも、行動の制御には重要だが、これについては、また別の機会に触れたい。)

たとえば、記憶というのは、知性の基本的な要素と考えて良いだろう。ヒトや動物の記憶を調べるテストというのはたくさんあるが、一番基本的なテストの一つに、「遅延見本あわせ課題」というのがある。

サルの目の前に、餌を入れたカップを置く。餌は、できるだけ美味しくて、腹にたまらないものが良い。レーズンなどが最適である。カップには、積み木などの物で蓋をしておく。例えば四角い積み木を使うことにしよう。サルはその積み木をどけて、中のレーズンを食べる。しばらくして、今度は2個のカップを置く。1個はさっきと同じ四角い積み木で蓋をする。もう一つは丸い積み木で蓋をする。四角い積み木を置いた方のカップにだけ、レーズンを入れておく。サルがさっき見た積み木の形を憶えていれば、四角い積み木をどけて、レーズンを取ることができる。
これは記憶のテストであり、何らかの理由で記憶障害を起こしたサルは、この課題を正しく解くことができない。(あてずっぽうで、正答率が50%になる。) だが、ここでサルに積み木をどけるという行動を起こさせたのは、記憶ではない。レーズンが好きだ、レーズンを食べたいという感情である。その証拠に、カップの中にレーズンを入れなければ、たとえ記憶力に問題がなくても、サルはすぐにこの課題をやらなくなる。

最近、新型コロナウイルス感染の第3波を止めるために、緊急事態宣言が発令されたが、人の行動はあまり変わっていないということが毎日報道されている。この病気に関しては、様々な事実が公表されている。専門家委員会の人たちも、一生懸命情報発信をしているようだ。
だが、人の行動はあまり変わっていない。繁華街の人出も減らないし、エライ人たちが会食したと言うニュースも繰り返し報じられている。(もちろん、エラくない人たちも同じようなものだろう。)
これは要するに、行動変容を起こさせるほどに大きな感情的な力が私たちの心に生じていないということだろう。

人間は、人に会うことや、人と一緒に食事をすることが大好きだ。これは今に始まった事ではない。江戸時代の人たちも平安時代の人たちも宴会を開いた。狩猟採集生活をしていた私たちの先祖だって、マンモスを獲った後には宴会を開いたのではないだろうか。
仲間と一緒に飲み食いするのは楽しい。街に出かけるのも楽しい。この人類に共通の感情に打ち勝つには、それに匹敵する感情の力が必要だ。昨年春には、未知の感染症に対する恐怖が行動変容の力になった。それから1年近くたった今、自分自身のこととしてこの病気に恐怖心を抱く人は、かなり少なくなったのではないだろうか。

高齢者など、重症化リスクの高い人たちがいること、医療関係者が苦労していることを知識として知らない人はいないだろう。だが、知識は感情を生まない。感情が生まれなければ、行動は大きく変わらない。
メルケルさんのように、国民の感情に訴える演説のできる政治家がいれば、状況はだいぶん変わるのだろうけど。

(by みやち)

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