心・脳・機械(4)感情が行動を起こす2(接近と回避)

実験心理学や神経科学では、感情を良い感情(positive emotion)と悪い感情(negative emotion)の二つに分ける。

感情といえば、嬉しい、好き、安らか、不愉快、嫌い、怖いなど、いろいろあるのに、これをたった二つに分けてしまうと言うのは、ずいぶん乱暴に思える。もちろんそこには、実験上の都合というものがある。動物に「今の気分はどうですか」と尋ねるわけにはいかないのだ。
動物が、ある物や場所にすすんで近づこうとするなら、たぶんその物や場所に対して良い感情を持っているのだろう。反対に、ある物や場所を避けるようになったら、きっとその物や場所に悪い感情を持っているのだろう。そうやって、行動から感情を判断するしかない。
すなわち、良い感情とは、ある物、場所、状況などへ接近させようとする力であり、悪い感情とは、ある物、場所、状況などを回避させる力である。

このような二分法は、便宜上のものだと、私自身長い間思っていた。たくさんある感情を、とりあえず二つのカテゴリーに分けただけだと。
だが、この「接近と回避」ということは、かなり感情の本質を表しているのではないだろうかと、最近になって思い始めた。

一例を挙げてみよう。私事で恐縮だが、私はある種の昆虫が大嫌いである。名前をあげれば誰でも知っている虫だが、その名前さえ書きたくないくらい、私はそいつらを嫌っている。セミなどと違って一年中活動しているはずであるが、特に夏の夜に活発になって我々の前に現れることが多い、あの黒っぽい虫だ。
その虫に出会った時の、私の感情は何だろう? 「不愉快」?「嫌い」?「怖い」? はっきりしているのは、そいつから離れたいということだ。と言っても、必ずしも本当に逃げ出すわけではない。自宅や自分のオフィスであれば、おそらく私はそいつに近づいて行くだろう。もちろん、殺虫剤か、あるいは丸めた新聞紙など、何らかの武器を手にして。
だが、そいつを見つけた瞬間に、「不愉快」とか「嫌い」とか「怖い」とかいう言葉が浮かぶより前に私が感じるのは、そいつから離れようとする、回避の衝動だ。その後あえて接近するのは、そいつを殺すことで、再び遭遇することを回避するためだ。
その時の感情を何と呼ぶかは、言葉の問題だ。人から「怖いの?」と訊かれれば私は「怖くはないけど嫌いなんだ」と答えるだろうが、その二つにどれだけの違いがあるだろうか。

もう少し明るく楽しい例をあげてみよう。みなさん、自分の十代の頃を思い出していただきたい。あなたには好きな女の子(あるいは男の子)がいる。この「好き」と言う感情は何だろう? それは相手に接近したいということではないだろうか。
もちろん、闇雲に物理的に接近したら、それはストーキングである。この場合あなたが接近したいのは、相手も自分を好きであると言う「状況」だ。反対にあなたが回避しなければならないのは、相手から嫌われるという状況である。
好かれるためには、物理的に相手に近づいて、楽しい話をしたり、親切にしたりするべきだろう。だが、嫌われないために一番確実な方法は、相手に近づかないことだ。そうして、接近と回避という二つの衝動の間で、多くの青春の恋の物語が生まれるわけだ。

さて、青春の恋の物語といえば、心臓がドキドキする、頬が赤くなるなどの身体的反応もつきものだが、これらについては、自律神経の働きで説明がつくようである。興味のある方は、日本生理学会のウェッブページ「生理学を知る」をお読みいただきたい。

胸キュンは軽い狭心症だというから、怖い、怖い。老いらくの恋など、本当に「命がけ」ということになりかねない。

(by みやち)

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