最近はあまり聞かなくなったが、以前よく「脳が喜ぶ」という表現を耳にした。いや、今でもGoogleで「脳が喜ぶ」というフレーズで検索すると、たくさんの記事が挙がってくる。こういうのを見ると思わず、「喜んでるのは「私」でしょ!」とツッコミを入れたくなってしまう。それから、「脳はこのように判断するのです」という類の言い方も、テレビ番組などでときどき耳にするが、これについても、「判断するのは私だよ」と言いたくなってしまう。
ところが、同じような擬人法でも、他の体の部位に使われた場合は、別に気にならないから不思議だ。「筋肉が悲鳴をあげる」と言われても、「悲鳴をあげるのは私だ」とは言いたくならない。「胃がびっくりする」と言われても、「びっくりするのは私だ」とは言いたくならない。これはなぜだろう?
たぶんそれは、筋肉や胃は、意識や意思決定という面では「私」に従属する立場にあることが明白なので、余裕を持って接することができるということだろう。(本当はそんなに明白かどうか分からないが。)
それに対して脳は、意識や意思決定に関して非常に大きな役割を果たしている。と言うより、現代の神経科学の主流の考え方では、私の脳の活動=私の心、と言うことである。脳と心(あるいは「私の脳」と「私」)は、どちらが主でも従でも無く、一体不可分のものなのだ。
ところが、脳は物である。「私」は物ではない。脳ドックを受けると、私の脳の画像を見せられるが、つくづく見ても、これが私には見えない。得体の知れない「物」である。むしろ私の顔写真を見せられる方が、はるかに「私だなあ」と言う実感がある。
このように、実は「私」と一体不可分でありながらとても一体とは思えない脳という物体。そこに、ある種の緊張感というかライバル心のようなものが生じてしまうのではないだろうか。「私」とは思えない物が判断をしたり、行動を決めたりしていると言われると、「それじゃあ、私は脳に操られているのか?」と、なんだか不愉快な気分にもなってくる。実際には、「脳の活動」=「私の心」なので、操るも操られるもないのだが。
見方を変えれば、私たちは脳を操ることができる。一番簡単なのは前頭葉の「中心前回」と呼ばれる部分だ。適当に右手を動かしてみてほしい。すると、左中心前回の真ん中より下の方の領域が激しく活動しているはずだ。左足首を曲げ伸ばしすれば、右中心前回の上の方が活動するはずだ。素直なものである。その活動を確認するにはMRIの中にでも入って脳血流を測定するか、せめて脳波計を取り付けないといけないが、ここは私を信じていただいて大丈夫である。
前頭葉の内側部のある領域は、働かせるのがなかなか難しく、聞いた話では、頭の中でオーケストラのスコアを思い浮かべるくらいの難しいことを考えないとダメだそうだ。一つの楽器の楽譜くらいでは足りないらしい。
そこまで難しいことをしなくても、本を読んだり、キャッチボールをしたり、メールを書いたり散歩をしたり今晩の献立を考えたりごろ寝をしてテレビを見たり、何をやっても、脳の様々な部分を働かせることができる。
まあ、あんまり無茶をすると「私」の方が疲れてしまうから、ほどほどにしておこう。
(by みやち)