心・脳・機械(28)感情と理性はどっちが偉い?(1)

「知と愛」というヘルマンヘッセの小説があったが、知性(理性)と感情というのは、人の心の重要な機能として古くから注目されていたのだろう。
現代でもそれは同じだが、少なくとも意識的には理性が感情よりも上に置かれているのが現代の特徴ではないだろうか。たとえば、ある人を評して「理性的」と言えばそれは褒め言葉だが、「感情的」と言うのは褒め言葉ではない。感情の方を褒め言葉にするは、「豊か」といういかにも良さそうな言葉を付け足して「感情豊か」と言わなければならない。

だが、昔から感情が理性より下だったかというと、多分そうではないだろう。司馬遼太郎によれば、江戸時代の武士はよく泣いたそうだが、それは無理もない話で、武士の道徳であった儒教の最も重要な徳目である仁とは、他者に対する同情心、思いやりの感情である。その他、義も孝も忠も、皆感情の問題だ。他の宗教を見ても、キリスト教は愛を説き、仏教は慈悲を説く。昔の偉い宗教家たちはみんな感情のことを語ったのである。

おそらく近代になって、宗教が弱体化し、科学が勢力を広げるに従って、理性の地位が上がり、反対に感情の地位が下がってきたのではないだろうか。
老子の言葉に「天地不仁」(あめつちはじんならず)というのがある通り、天地自然の原理を追求する自然科学では、仁だの愛だのという感情はあまり役に立たない。自然科学をモデルとして考えると、どうしても理性の方が重要になってくる。

さて、心が脳の働きだとすると、脳の中での感情と理性の地位はどうなっているだろう。
ここから少しマニアックな話になる。(いや、少しではないかもしれない。)

大脳皮質は数十の領域(「領野」と呼ばれる)に分けられ、それぞれの領野がそれぞれの機能を持っていることが知られている。その中には感情に重要な領域もあり、ルールに基づいた判断、予測、概念の理解など、理性的な機能に関わる領野もある。領野間は神経繊維(軸索)でつながり、情報をやり取りしている。これらの領野間に、偉い偉くないという関係、あるいはヒエラルキーというものがあるだろうか。

じつは、あるということになっている。ただし、人間社会のヒエラルキーと違って、命令をするとか従うとか、搾取するとかされるとかいうことではないのだが、情報処理の流れの中で、より単純な情報を扱う領域と、より複雑な情報を扱う領域があり、より複雑で統合された情報を扱う領野ほど上位(higher-order)であり、より単純な情報を扱う領野ほど下位(lower-order)と言われる。
これは皮質内の視覚情報処理の仕組みを調べる過程で提唱されたことで、視覚情報処理について言われることが多い。例えば、後頭葉の一番後ろにある一次視覚野の細胞は、視野の中の特定の位置に特定の傾きの線があれば、それが何であろうと反応する。つまり、一次視覚野は、線分の位置と傾きの情報しか持っていない、もっとも下位(低次)の視覚野である。そこから前に進んで側頭葉に入ると、その線がどんな図形の一部になっているかで反応を変える細胞が現れる。さらに前に進むと比較的単純な図形(筒型とか、ニコニコマークとか)に選択的に反応する細胞が現れ、側頭葉の一番前に行くと、人の顔を見分けたり、表情を見分けたりする細胞が現れる。こういう場所は、高次視覚野と呼ばれたりする。
低次の領野が抽出した線分の情報を使って次の階層の領野が単純な図形を認識し、さらには単純な図形や線の情報から複雑なものの形を認識し、ついにはその物のアイデンティティまで認識するという、階層的な視覚情報処理の仕組みがあると考えられている。
1970年代にこのような視覚情報処理に関わる皮質領野間の神経連絡を調べた人たちが、より低次の領野からより高次の領野へ情報を送る軸索のつながりと、反対により高次の領野からより低次の領野へ情報を送る軸索のつながりでは、パターンが違っていることを見つけた。逆にいうと、顕微鏡を使って脳の標本を見て、神経軸索のつながり方を調べれば、繋がった二つの皮質領野のうち、どちらが上位でどちらが下位かを推定することができるというわけだ。

長くなるので、続きは次回に。次回もマニアックな話です。
(なんか、大変な話題に踏み込んでしまったような気がするなあ。)

(by みやち)

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