【 魔のウィルス 】28 最終回

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当時、父は市立中学校で美術教師をしていたのだが、小学校2年生の私の生活や学習や絵画については、父親としてほとんどなにも言わなかった。一切、干渉しなかった。そうした助言なりアドバイスなり小言なりの記憶は全くない。当時の私の日記にも見当たらない。それは父の家庭教育方針であったのかもしれず、あるいは「家に帰ってまであれこれ(教育に関することを)言いたくない」という気分だったのかもしれない。

あるいはその時期、夢中になって制作に没頭していた絵画のことで、父は頭がいっぱいだったのかもしれない。車庫の手動シャッターがガラガラーッと大きな音をたてたことで父の帰宅はすぐに分かったが、彼はそのまま(車庫の真上の)アトリエに直行した。夕食まで出てこないのが普通だった。
彼はタタミ2畳ほどの(それまでにない)大きな抽象絵画を制作していた。その作品の評価により全国的な規模の美術団体へ入会する意欲であり、その意欲については7歳の私に盛んに語っていた。私はそれを日記に記録しているのだが、肝心の抽象絵画作品についてはさっぱり理解できず、「ミミズとナメクジがにじいろにひかるアブラをおよいでる」と自分なりの表現(笑)をしている。

涙を浮かべて説教する母に対し、私はひたすらに沈黙した。すると(私の予想どおり)やがて父が言った。
「これは漫画だよ。しかもギャグだ。だからそれほど怒るようなことじゃない」

激しい口調で詰問したり泣いたり怒ったり、は母のいつものやり方だった。同席している父がひととおりの母の話を聞いたのち、そのうちになにか言い出すだろう。父はそうした場を嫌うタイプだった。一刻も早く切り上げようとして、なにか懐柔策を持ち出すにちがいない。そのパターンを私は知っていた。なので「余計なことを言って母の逆上に油を注ぐよりは、黙っているに限る」といった作戦だった。

正確に言えばその漫画はギャグではなく、極めてシリアスに描いたつもりだったのだが、当時の私がギャグだのシリアスだのというジャンルを知っていたのかどうかわからない。ともあれ「これはたかがギャグ漫画」ということで、片づけられた。しかしそれでも母はその漫画が気味悪かったらしく、「これは捨てます!」という没収命令だった。私は黙って庭の隅のドラム缶でその作品が焼かれる様子を見守った。さらにまた母は条件を出した。
「これから描く漫画は、全部見せること!」
私は「はい」と返事した。

しかし(もちろん)私は、その後の漫画作品を母に見せはしなかった。むしろ逆で、「絶対にバレない隠し場所」を真剣に探した。結論としては、その場所は「自分の部屋のどこか」ではなく、父のアトリエだった。彼がアトリエの壁に備えつけた大きな書棚の、膨大な画集の中の1冊に隠すことに決まった。
しかし父が時々開くような画集ではまずい。その点も慎重に考えた。A3ほどの「ハードケースつき大型画集」に決まった。いま、その画集は私が所有している。「ヒエロニムス・ボッス・全作品」だ。

「もしあの少年を目撃することがなかったら……」と想像したことが何度かある。毎日のように蝶を捕獲することに夢中だった私は、その後、三角ケース使用による保存から展翅、標本制作へと進展していっただろうか。その可能性は十分にあったように思う。その後、高校生となっても、大学生となっても、「蝶の展翅標本」を見かけるたびに私の心はザワザワと騒いだ。「やってみたい」と思ったことは何度もあった。しかしやめた。理由はよくわからない。たぶん、「7歳の自分を裏切る趣味だ」と自分を責めることになるからだろう。

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………………………………(少年時代回想編・おわり)

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長きにわたり「脱線ウィルス談」にお付き合いいただき、ありがとうございました。
今回の「魔のウィルス」は、今年の3月20日(金)から延々と脱線に継ぐ脱線で語ってきたが、そろそろ終わりにしたい。

「姿が見えない」だけでなく、「感染が見えない」「先が見えない」という3つの「見えない恐怖」が、対ウィルス戦争で人類が最も困惑し疲弊し自己崩壊してゆく理由となるのかもしれない。こうした社会状況や社会の変化を眺めつつ「先の見えないウィルス魔談」を重ねてきたが、いつのまにか28回という最長魔談になってしまった。雑学をこよなく愛する男なので「やろうと思えばいくらでも続けられる」という根拠のない自信(笑)はあるのだが、話題というものは長すぎては絶対にいけない。ほどよい時点でスパッとやめるのが良いのであって、ダラダラでいいことなどひとつもない。ところが今回の「魔のウィルス」では現実的な(尽きることのない)ウィルス話題にひきづられ「ほどよいやめどき」を見落としてしまったような気がする。なので「いまさら」だが、今回で終了。

じつは最後に少年時代回想談を語り始めた経緯だが、「ミイラという言葉で喚起された7歳エピソードを語りたくなった」というのが、第一の理由。じつはもうひとつ理由がある。

「魔のウィルス4」(4月10日)から語り始めた「フィレンツェ在住の友人画家」が、「しばらくイタリアの田舎にひっこみたい」と言い出した。どこにひっこむつもりなのか知らないが、(どうやら同棲の彼女と別れることになったらしく)(どうやら彼が荷物をまとめて出ていくことになったらしく)都会を避け、ネットもメールも電話も遠ざけて、しばらくのんびりしたくなったらしい。それはそれで(いつまで続くかわからないが)画家人生としていい1コマのようにも思う。

ただ彼はイタリアではどこに行っても「この国にウィルスをばらまいた中国人」という白い目で見られるので大丈夫だろうかと案じられるのだが……例のTシャツ、「Sono giapponese」(私は日本人)と書いたTシャツを利用するのかもしれない。ヨーロッパの人間から見れば、「極東」という言葉が象徴するように「中国も日本も同じ」ようなところがあるのだが、ともあれ、彼の無事を祈りつつ、「魔のウィルス」はこれにて終了。

全人類震撼のウィルスが再び猛威をふるい、再び「魔談」で取り上げざるをえないような事態にならないことを切に祈りたい。

………………………………………【 魔のウィルス・完 】

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