【 台湾魔談 】(9)

【 地図さがし 】

台中在住の友人情報で、わかっているのは住所だけだった。とはいえ、「大してデカイ街じゃない。地図さえ手に入れば、倒壊した友人のアパートになんとかたどりついてみせる」と思っていた。磁石も日本陸軍採用の頑丈なヤツをいつもザックにぶら下げている。うまくいけば、アパートに近い病院が地図でわかるかもしれない。自宅のパソコンで見た友人からのSOSメールでは、「近くの病院にかつぎこまれた」と書いていた。地図が手に入らなければ、警察官かそこらの人をつかまえて、手帳に記した住所を見せるという手もある。

いまこのエッセーを書いていて、ふと思った。
この当時、つまり21年前の1999年当時にスマホはなく、私が日常的に使っていたのはガラ系携帯だった。じつは今も私はスマホを嫌い、ガラ系携帯・iPad・iMac(デスクトップMac)の3種類で日常的な通信を維持している。
「ふと思った」のは、この当時に使っていたガラ系携帯は何台目で、どんな形状の携帯であったか?……といった淡い疑問だ。記憶だけではすっと思い出せなかった。
しばらく執筆を止めて目を閉じ、集中して記憶を探り、ようやく「3台目のガラ系だ」とわかった。ついでその当時の行動の様々なシーンを頭に浮かべ、ようやく「あっ!」と具体的な形状を思い出した。

たわいないことのようだが、いまこの文章を読んでいるあなたが60歳より若いのであれば、「60を越えたあたりから、急激に記憶が薄れていく」と忠告したい。もちろんこれは一般論ではなく、私個人の実感である。
大抵の人は「まあ、そうでしょう」といった感じで、さほどそうした記憶力低下を問題にしない。問題にしたところで、半ば諦めているというか、どうしようもないと思っている。
しかし私はあらがっている。大いに問題にしている。どのようにあらがっているかというと、「あ、思い出せない」で済ませない。「思い出せるはずだ」と自分の記憶倉庫を信じ、徹底的に思い出す努力をしている。こうした努力自体が大事だと思う。

たとえば映画のタイトルもシーンもよく覚えているのに、そこに出て来た男優の名前が出てこない。よくあることですよね。しかし「あ、忘れちまった」で終わらせない。すぐに調べたりしない。徹底的に思い出す努力をする。仕事をしながら、買い物に行きながら、なんとなく頭の隅でその名前を求めている。するとある瞬間に、スッと出てくるのだ。「そうだ、ジェフ・ゴールドブレム!」てな具合に思い出した瞬間は、なかなかの快感であり、じつになんというか、満足する。

いまの時代であれば、とにもかくにもスマホがある。海外の友人とも簡単に連絡がつく。私がいま綴っている台湾渡航も必要なかったに違いない。便利だ。しかしそれでいいのだろうか。なにもかも「便利だ」で、ことが迅速に解決する。本当にそれでいいのだろうか。

当時、私が使っていたガラ系携帯は、海外では全く役立たずだろうということは容易に想像できた。なので携帯は日本に置いてきた。いまなら「スマホなしの海外など考えられない」という人がほとんどだろう。「便利な時代になったものだ」と思う反面、なにもかもスマホから情報を得て行動する人間というのはこれから先、本当に大丈夫なのかという一抹の不安もある。トラブルでスマホが使用不可になった瞬間に、使用者自身が茫然自失の機能不全状態に陥るような人が多く発生するのではないだろうか。あたかもスマホが電力供給源みたいに。

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さて台中。
最初に見つけた書店はシャッターが半分降りていた。上体をかがめて中をちょっと覗いてみた。棚が倒れている。おびただしい数の本が床に散乱したままだ。こりゃだめだ。
次に見つけた書店は開店していたが雑誌専門で、店内に地図は見当たらなかった。念のため「台中市地図」と書いた手帳を店の主人に見せた。すると主人(70歳ぐらいか)は流暢な日本語で「地図はないです」と言い、私を見てニヤッと笑った。

台湾では高齢者で日本語を話す人はじつに多い。日本統治時代の名残である。彼らは私が日本人であると知ると、ごく自然に日本語で話しかけてきた。みな驚くほど流暢な日本語だった。北京語が話せない私としてはそのおかげで思いもかけず会話が成立したわけだが、それにしても彼らはどのような心情で日本語を話すのだろうか。私にはわからない。

以前、台北で出会った老人は、なにか懐かしい情景でも追いかけているように目を細め、かすかに関西なまりを感じさせる日本語を話した。台北駅近くの公園で夕涼みをしていたふたりの老人は、なぜか日本語を使っておだやかに談笑していた。基港(キールン)で屋台を開いていた老人は、人なつこい微笑を浮かべながら日本語を話し、その後沈黙して港を見つめた。

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【 道路封閉 】

台中市街にはいたるところにビニールの黄色いテープが張られている。狭い路地の入口や、倒壊してしまった家屋の周囲に張りめぐらされ、ひらひらと風になびいている。近づいて手に取ってみると、黄のテープに赤い文字で「道路封閉/請勿進入」と印刷されている。発音することはできなくとも、漢字を見ればだいたいの意味は検討がつく。

道を行く人々はそんなテープなどまったく気にしていない。頭上にひっぱり上げたり、またいだりしてどんどん入っていく。私もまた「右にならえ」式に、このテープを見かけても「もう少し接近して倒壊状況を見たい(写真に撮りたい)」と思った場合はテープをまたいで中に入った。危険を感じたことはなかったが、ちょっとしたハプニングがあった。

傾いた建物を撮影しようとして路地の奥に入っていったときのことだ。突き当たりに立っていた3人の中年男たちが私を見て大声で呼んだ。背後を振り返ってみたが、だれもいない。明らかに私を呼んでいる。さすがにちょっと警戒したが、近づきながら男たちの印象を観察すると、ごく普通の人々のようだ。目の前に行くと、大声でなにかを説明しながらいきなりシャベルをわたされた。なにかを掘り起こすのを手伝ってほしいということらしい。「そんなヒマはない」と思ったのだが、懸命に掘っている3人を見ていると「まあ少しぐらいなら」という気持ちになった。私はザックを下ろした。

苦笑もので汗をかきかき半時間ばかり掘ってみると、倒壊家屋の瓦礫の下から出てきたのは小型金庫だった。よく旅館などの部屋にあるような金庫である。「やれやれこれだったのか」と安堵した。「まさか人を掘り起こしているのでは」とひそかに恐れていたのだ。できることならばそんな経験は遠慮したい。しかしシャベルをふるいつつ周囲の男たちの挙動を観察すると、3人ともいたってのんきにシャベルやツルハシをふるっている。生き埋めになった人を大急ぎで救出する、なんて悲壮感はどこにもない。その点で「これはどうやら生き埋めではないらしい」とは思っていた。

しかし今度は「こんなことにつきあってられるか」という気分が次第に大きくなってきた。半時間ほどつきあってラチがあかなかったら逃げ出そう。そう思っていた。そんなときにポコッと出てきたのが金庫だった。しかもおかしいことにひとりの男が喜色満面でポケットから鍵束を出し、(どういう人なのかよくわからないが、30本ぐらいの鍵がガラガラとつながっていた)、ひとつひとつ確かめながらやっとのことで金庫を開けると、中から出てきたのは女優写真の束だった。

ものすごく大切なものなんだろう。彼はヒシとそれを胸に抱き、しばしうっとりとした恍惚の表情を見せた。私はいつのまにか背後に立っていた中年女性(たぶん鍵束男の奥さんだろう)からよく冷えたカンビールを受け取った。まさに肉体労働の報酬。最高にうまかった。

……………………………………    【 つづく 】

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