<赤ワシ探偵シリーズ番外編>山猫夜想曲◆第二十話「夜想曲」

ジョーがドアに身を寄せると、ドアの向こうの何者かも同じようにした気配があった。

「『銀のさざ波』という曲を知っているか?」

その声は、最初にジョーをこの家へ連れてきた茶トラ、シマジのものだった。
ジョーは藪から棒な質問の意図をはかりかねて、逆に質問した。

「夜想曲《ノクターン》のか?」

その返事を聞いて、シマジは安心したように息を吐いた。

「一度しか言わねえからよく聞け。このままだとおまえは殺される」

そこで間をおく。「殺される」という言葉がもたらす恐怖が、ジョーの中に浸透するのを待っているようだ。

「助かるための唯一の方法は、坊ちゃんを連れ出して『銀のさざ波』のメロディを聞かせることだ。坊ちゃんは今、眠らされている。目覚めるまで繰り返し『銀のさざ波』を歌え。廊下に出て右、左側の3番目のドア。今なら見張りはいねえ。おまえが助かる道はそれだけだ」

「どうして俺を助けようとするんだ」

「わけなんざ聞いてどうする。俺はおまえが助かる方法を教えてやってるんだぜ。それとも死にてえのか」

「死にたくねえから聞いてるんだ。おまえを信用できる根拠はなんだ」

「では俺の話は聞かなかったことにしろ。部屋へ戻ってご馳走をたらふく食うんだな」

ドアの向こうの気配は去った。
ジョーは動けなかった。シマジの最後の言葉が頭にこびりついて離れなかった。

やはり、あの料理には毒が仕込まれているのか。

心臓がバクバクと暴れて口から飛び出しそうになり、頭がカーッと熱くなった。

(くそッ、落ちつけ)

ジョーは天井を見上げた。
それから洗面台の上に立って手を伸ばし、天井にある点検口の蓋を開けた。
ひと飛びで、するっと天井裏に入り込む。
立体都市の隙間に寝ぐらを作り、電線の途中から電気を失敬して暮らしているジョーは、建物一般の構造を熟知していた。

廊下に出て右、左側の3番目のドア。
そこまで行くと、また点検口を見つけてそっと開ける。
消毒液の匂いが鼻をついた。部屋の中央に台があり、手術着姿のジャックが横たわっていた。その周囲を、さまざまな道具や計器が囲んでいる。

その光景を目にするやいなや、ジョーは衝動的に点検口から飛び降りた。台の上のジャックの首根を咥えて天井裏に戻るまで、切れ目のない一動作だった。

我を忘れていた。
わけのわからない激情に突き動かされ、風のように隙間をすり抜けて、換気口から建物の外に飛び出す。

立体都市は、夜の帳に包まれていた。

〜〜〜 現在 山猫軒 〜〜〜

「正直に言いますとね、ジャックをかわいそうに思ったわけではないんです。私の中に湧き上がったのは『俺が苦労して約束を果たしてやったのに、それを踏みにじるようなことをしやがって』という怒りでした。

走って走って、迷路のような違法建築街を抜け、海を見渡すところまで来ると、へたり込みました。三日間何も食べていなかった身体がいよいよ電池切れになったのです。ジャックはまだ目覚めません。
私はそこでシマジが言ったことを思い出し、夜想曲の「銀のさざ波」を大声で歌いました。そんなことをして状況が良くなるとは思えませんでしたが、身体はもう動かないし、やぶれかぶれというやつです。

繰り返し同じメロディを歌ううちに、私は忘我の境地に入っていきました。自分が歌っているという感覚がなくなり、どこか遠くの方から自分の歌声が、まるで天上の調べのように聞こえてくるのです。真っ暗な夜の海を月光が照らし、曲名のとおり、一面に銀のさざ波が広がっていました。それは、この世のものとは思えないほど美しい光景でした。

…………

気がつくと、ジャックが私の顔を覗き込んでいました。
彼は紙袋を大事そうに抱えていました。中に何が入っていたと思います? 食パンの耳ですよ。夜明け前から仕込みをしているパン屋に頼み込んで、もらってきたのだそうです。
逃げるときに、狭い裏道や隙間をさんざん通ってきたので、ジャックも私と同様、ほこりにまみれてひどいありさまでした。パン屋の主人はその様子をみて、施しをしてくれたのでしょう。

私がパンの耳を夢中で口に押し込む間、ジャックは自分の身に何が起きたのかを話してくれました。“無意識状態で『銀のさざ波』のメロディを聞く”というのは、彼の脳に保管された、黒蛇団の隠し財産の情報を取り出すためのトリガーだったのだそうです。

私はそれを聞いて、やられた、と思いました。シマジは私を利用したのです。ジャックを連れ出して『銀のさざ波』を聞かせることを教えたのは、私を助けるためではなく、ジャックを自由にするためだったのです。シマジはおそらく、ずっとジャックを不憫に思っていたのでしょう。しかし自分ではどうすることもできなかった。ボスによほどの恩義があったのか、家族を人質のようにされていたのか、くわしい事情はわかりませんが、シマジの目には、黒蛇団の外から来た根無し草の私は、格好の捨て駒と映ったに違いありません。

挿絵:服部奈々子

挿絵:服部奈々子

目覚めたジャックは、みちがえるように生き生きとしていました。チエクラゲの農場で一生を終えることをほのめかしたときの、冷めた様子とは別人のようでした。どうやら、農場を出てからの体験が彼を変えたようです。

彼は、財産を半分あげると言ってきましたが、私は断りました。彼はこれから、新しい人間として生まれなおさなければなりません。過去の経緯を知っている私は、彼の新しい人生にはいないほうがいいと思ったのです。つまり、一切の関わりを経つことが最良の道だと。当時の彼の名前を伏せたのもそのためです。
実際、いま彼がどこで何をしているか、私は知りません」

ジョーは言葉を切った。冷めたカップを両手で包み、思い出に浸るように目を閉じる。

「めでたしめでたし、というわけね」

カテリーナがそう言うと、ジョーは目を開けて微笑んだ。

「お話はもう少し続きます」

(第二十一話へ続く)

(by 芳納珪)

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