大学に進むころには、私のサボテンラジオ園はちょっとした名所になっていた。
ステージの中央には、サボテンラジオ第一号の「金鯱」と、第二号でパートナーの「弁慶」がなかよく並んで鎮座している。その周りを、さまざまな珍しいサボテンが取り囲んでいる。私はサボテンを動かすことなくチャンネルを変えられるチューナーを開発していたので、純粋に集合体として美しく見えるような並べ方を追求することができた。また、サボテンは形がよく生き生きとしている方が感度がよいので、毎日の手入れを念入りにした。私にとってサボテンたちは家族も同然だった。
木戸の横には、私が手書きした番組表が毎日貼り出される(まだ国内の放送はなかったので、それぞれのサボテンが受信する放送局や番組に私が勝手に名前をつけ、曜日ごとにリストにしたものだ。レギュラー番組の改変の時期や、祝日の特番などは事前に知ることができないので、番組表が放送と違ってしまうことはよくあった)。ステージのそばにチューニングのブースを作り、チャンネルのリクエストに応えた。
ところが、来園客が増えるにつれ、しばしばチャンネル争いが起こるようになった。
私は心を痛め、チューニングすることをやめて、それぞれのサボテンにイヤホンをつけることも考えた。しかし、やっぱりみんなでひとつの放送を聞いている光景が、私は好きだった。
そうはいっても、時代の流れには逆らえない。サボテンラジオを個人で聴くことが徐々に流行り出した。お気に入りの放送局のサボテンを寄せ植えにして、自分だけのサボテンラジオセットを作るのだ。
私はふと思いついて、教授に相談した。そうした個人のサボテンラジオマニア向けに、チューナーを製品化してはどうかと。しかし教授は、大きすぎて売れないだろうと言った。たしかに、卓上レベルの寄せ植えなら、サボテンをそのつど手で組み替える方がかんたんだと、そのときは私も納得した。
それからほどなくして、国内で独自にサボテンラジオ放送を始める人たちがあらわれた。受信株として使われていない種類のサボテンを見つけ出し、その周波数を使って自宅から番組を流す。同時に受信用のサボテンを栽培して販売し、儲けを得るというわけだ。
全国各地に、雨後の筍のようにサボテンラジオのミニ放送局ができた。人気の放送を受信するサボテンは、放送局の直販分が品切れになると、街の花屋でも完売して入荷待ちになり、闇価格が高騰した。
サボテンラジオを放送することは違法ではなかったが、闇取引が問題視された。希少な受信株の末端価格はとんでもないことになっていた。国会でも取り上げられ、サボテンラジオに対する世間の風当たりは強くなった。
それでも、サボテンラジオに楽しみを見出したものたちは、放送を流すことも聴くこともやめなかった。
撤退した放送局も少なくなかったが、逆にそれによって、価格の高騰はいったん落ち着いた。加えて、もともとそれほど情熱があったわけでもない連中が淘汰されたおかげで、放送全体の質が上がった。
黎明期を抜けた国内サボテンラジオ界では、優れた音楽やドラマを流す放送局がある一方で、社会派の放送局もあった。討論や検証をする番組では様々な主張や議論がなされ、国内サボテンラジオ界の一角は極度に政治化していった。
そうした「主張するサボテンラジオ放送局」は、郵便局に私書箱を設置して、リスナーからのハガキを受け付けた。曲のリクエストとともに自分の意見を書いてハガキを送るリスナーたちは、ハガキ職人と呼ばれた。DJもハガキ職人も地下活動とみなされたので、表向きは一般人として生活しているものが、裏ではハガキ職人として鋭い持論を展開していたりした。
私は、そういった騒ぎとは距離を置きたくて、自分のサボテンラジオ園には国内放送用のサボテンはいっさい置かなかった。私のサボテンたちは相変わらず、あの夏の日と同じように未知の言葉をつぶやき、不思議な音楽を流した。
――――つづく
(by 芳納珪)
☆ ☆ ☆ ☆
※ホテル暴風雨にはたくさんの連載があります。小説・エッセイ・漫画・映画評など。ぜひ一度ご覧ください。<連載のご案内> <公式 Twitter>