「やってるかね」
私は「月世界中華そば」の暖簾をよけ、引戸を開けて声をかけた。黄味餡みたいなおかみさんが、巨体をゆすりながら奥から出てきた。
「あら赤ワシのだんな、いらっしゃい。今日は残業ですか?」
「うん、調査が長引いてね。ジョーのところが休みだから、ここで食えないとなると今日は晩飯抜きになるところだった。火星担々麺をもらえるかな」
おかみさんは私の注文を厨房に伝えると、お冷やとおしぼりを持って戻ってきた。
「山猫軒はいつまでお休みするんでしょうねえ」
「住居部分の改装だからね。店はできるだけ早く開けたいって言ってたよ」
「山猫軒のだんな、こないだ奥さんと坊ちゃんと一緒に歩いているのを見かけましたよ。奥さんは近くで見るといっそうおきれいで、坊ちゃんもなんていうか凛々しくおなりでねえ。あたしがここへお嫁に来た時分は、あのジョーはほんとに札つきの不良猫でしたけれど、それが今、あんな絵に描いたように幸せな家族を持って、あたしゃもう胸がいっぱいになりましたですよ」
おかみさんは感極まったように割烹着の裾を持ち上げて目尻を拭った。
「おかみさんもそれにひと役買ったでしょう。アレキセイがここで楽譜を書くことができたから、ジョーとカテリーナがああなったとも言えるのですからな」
「ほんとにあなた、あの時は腰を抜かしましたよ。猫二人抱えて飛び込んできたと思ったらゴセンなんとかを買えだのなんだのって。それからだんなは気を失っちまうし、人だかりはしてくるし、もう何が何だか……はいよー!」
厨房から呼ぶ主人の声に応えて、おしゃべりなおかみさんはテーブルを離れた。私はホッとひと息ついて、水を飲んだ。
「おい」
誰かに声をかけられたような気がして、私はあたりを見回した。
が、簡素なテーブルと椅子がならぶ店内に、他の客の姿はない。
「ここだ、ここ」
今度ははっきり聞こえた。下の方からだ。
隣のテーブルの下を見ると、一匹のねずみが齧りかけの餃子を抱えてこちらを見上げていた。
客……なのだろうか?
「なんだ、私に何か用かね」
「今の話、この前なんかすげえ曲が発見されたとかって騒がれてたやつか? その曲発見したの、あんたなのか?」
いかにもすばしっこそうな面構えをしたねずみは、黒いひとみをきらんとさせて、畳み掛けるように聞いてきた。私はいささかうんざりして、大げさにため息をついてみせた。
幻の古代の楽曲『ニフェ・アテス』が公表されたとき、その発見に私が関わっているという噂が音楽マニアの間で広まり、私が運営するレッドイーグル探偵社の周辺に野次馬が押し寄せたのだ。最近ようやく、その波も引いてきたところだった。
「きみに答える義理はない。初対面なのにいきなりこちらのことを尋ねるような礼儀知らずにはな」
ピシャリと言ってやると、そのねずみはキョトンとした顔をし、それから思いついたようにかたわらの荷物の中から何かを取り出して頭にかぶった。
「初対面てわけじゃないぜ。これでわかるか?」
「……十六番街の占いねずみか!」
占い師の帽子をかぶったその姿には見覚えがあった。といっても、以前仕事で会った占い師が、彼その人かどうか定かではない。ねずみたちはよく似ていて、見分けがつきにくい。
「そうとも。写真を鑑定してやったじゃねえか」
それではっきりした。占いではなく、本物の「超能力」でものごとを見通すという、あのねずみだ。
彼は後ろ足で立ち上がると、自信満々といった様子であごを上げ、髭をシュッとしごいた。
「グレコと呼んでくれ」
(第二話へ続く)
(by 芳納珪)