「それはありがとうございました」
私は立ち上がって頭を下げた。高級感あふれる上層の部屋で貴婦人を前にしているのだから、舞台俳優のようなお辞儀ができればよかったのだが、やり方がわからなかった。
「当然のことをしたまでです。どうかお座りになって」
レディMの言葉には怒ったような響きがあった。どうやら、たいへんな照れ屋らしい。
私が座ると、彼女は軽く咳払いをして、口調を変えた。
「何かお飲みになります?」
「ありがとう。それでは、コーヒーをいただけますか」
レディMは、隅に控えていたヒューマノイドのメイドを呼び、飲み物を持ってくるように伝えた。
私は「ホットかアイスか」などという愚かなことを聞かれなかったので、大変気分がよくなった。コーヒーといえばホットに決まっている。
メイドが部屋を出たあと、私はさっきから気になっていたことを聞いた。
「ところで、私と一緒にねずみが一匹いたはずですが」
「ご安心ください。同様に救出して、別の部屋でお休みいただいています」
レディMは微笑んだ。知的で固い印象が少し和らいだ。
「それはよかった。そういえば、自己紹介がまだでしたな。赤ワシです。立体都市最古の家系の一つ、フェアードマン家のご当主にお目にかかれて光栄です」
「あら」
表舞台には決して姿を表さないと言われる名家の主人は、少し意外そうに目をしばたたかせた。
「驚いておられるようですな。それぐらいの知識はあります。職業柄ね。私が何者かはすでにお調べ済みと思いますが」
レディMは気まずそうに眉を寄せた。
「お気を悪くなさらないで。ごく基本的なことだけです。それに『ニフェ・アテス』の件でちょっと世間に知られたお方ではありませんか。わざわざ調べるまでもありません」
そのとき、扉が開いて、さっきのメイドがワゴンを押して入ってきた。その脇をすり抜けて、ちょろちょろっと床を走ってくる小さな影があった。
「おい相棒! 無事でよかったな。心配したぜ」
「何が相棒だ。転送装置で分解されておかしくなったか」
私があきれている間に、隠れエスパーねずみのグレコは私の体を駆け上り、肩にちょこんと止まった。
「レディMに助けてもらったお礼を言ったのか?」
「えっ、あんたが助けてくれたのか? ありがとうな。待てよ、ということは、ここは天国じゃないんだな」
「天国だと思っていたのに『無事でよかった』もないもんだ」
我々のやりとりを見て、レディMはクスクスと笑った。彼女はグレコにも飲み物の希望を聞いた。彼はココナッツ・ジュースを注文した。
私は生涯最高になるかもしれないコーヒーの香りを嗅ぎながら、レディMが口を開くのを待った。彼女は自分の前にメイドが紅茶のカップを置くのを眺めながら言った。
「なぜ、あなた方をここへお連れしたのか訝しんでいらっしゃるでしょうね」
「そうですな。転送するにしても、落下を止めるだけならどこか近くの路上でいいわけです」
「ひとつには、あなた方の心身に異常がないかを調べるため」
「しかし、それだけであれば、わざわざあなた自身がこうして姿を見せる必要はない」
レディMは、板についたしぐさでカップとソーサーを取り上げながら、口元をほころばせた。
「さすが、優れた洞察力をお持ちね。手がかりを求めているのです」
「手がかり?」
「そうです……『ノルアモイ』の」
(第八話へつづく)
(by 芳納珪)