その日の仕事帰り、私は久しぶりに、バー「山猫軒」へ行った。
レッドイーグル探偵社がある通りを南へ下り、突き当たりを右に曲がって坂を少し登ると、猫マークの看板がかかっている。
店の名前はどこにも書いてないが、この階層で「山猫軒」といえば、ここのことだ。
マスター兼バーテンダーの”片目のジョー”は、自分はいつか山猫になると信じている、ごく普通のサバ猫だ。
右目の眼帯の下には、血気盛んな若猫時代、夜を徹したなわばり争いの際に受けた傷があるらしい。
「いらっしゃい」
ドアを開けると、月光をイメージした青白い照明の店内に、猫なで声が響いた。
コワモテな外見とはうらはらに、ジョーの語り口はやさしい。
会話を邪魔しない音量で、ピアノとフルートのセレナーデがかかっている。
音楽好きのジョーは、ときどき店が終わったあとに、公園階層のお気に入りの木の枝で、ひとりで演奏する。楽器は、ハモニカや手風琴やウクレレなど、日によって違う。
私はカウンターのスツールに腰掛けた。
「仕事ですか」とジョーはたずねた。
「わかるかね」と私は答えた。
「目つきが違いますな。息抜きの時とは」
「……この暑い中、死にかけた水星人がやってきた。やってきてから死にかけたのかもしれないが、まあどちらでもいい。『妻を探してほしい』と言って、この写真をよこした」
私は、カウンターに一枚の写真をおいた。
水星人が、尋ね人の手がかりとして出した、唯一の品。
懐古趣味の、紙焼きの静止画像。花模様のドレスをまとった原地球人の女が、まぶしい光の中で、あふれんばかりの笑みをこちらに向けている。
ジョーは、マティーニグラスを拭く手を止めると、上品なしぐさで写真を持った。
この商売が長い彼は、こういうときに決して爪を出したりしない。
「きれいなひとですね」
しばらく眺めてからそう言って、ジョーは写真を返してよこした。
「今宵は十六夜ですな」
ふきんをたたみ直しながら、ジョーは鼻歌のようにつぶやいた。
「シンメ通りに一番近い柱の、東の右から二番目。よく当たりますよ」
私は満足して、ジョーの肉球に銀貨を乗せた。
やはりジョーは、有益な示唆を与えてくれる。
だが、鳥目の私は気づかなかったのだ。
そのとき、店の奥の暗がりに座っていた客が、じっとこちらを見ていたことに。
(第三話に続く)
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