「アレキセイ・トトノフスキイ!」
ジョーが、うなるように言った。
「思い出しました。十年ほど前に音楽アカデミーを追放された、あのトトノフスキイですか。追放の理由は公表されませんでしたが、噂では異端の研究に手を出したとか。こんなところに住んでいたとは」
私は呼び鈴を押した。キンコン、と簡素な音が鳴り響く。
返事はない。
もう一度押す。
ドアの向こう側に、何かが近づいた気配があった。私は耳をそば立てた。
しかし、相変わらず応答はしてこない。扉一枚隔てて、見えない相手との間に緊張感が高まった。こんどは呼び鈴ではなく、直接声をかけようとしたとき——
「今、取り込み中です。お引き取りください」
よく通る美しい、大人の女性の声だった。
「ああ、ちょっとお聞きしたいことがあるのです。お時間は取らせません。ドア越しでも構いませんから」
「お話しすることは何もありません!」
ぴしゃりと返された。有無を言わせぬ響きである。
さてどうしたものか……と逡巡する気持ちを共有しようとして、ジョーを見た。すると彼は、私の耳に口を寄せて、ある提案をささやいた。
「……ふむ、そうか。では、やってくれるかい」
こちらもささやき声で返すと、ジョーはポケットからおもむろにブルースハープを取り出した。
立体都市の構造体や配管が露出する錆びついた裏路地に、むせび泣くような音色が流れ出す。
壮大で、あたたかく、胸をしめつけられるように懐かしい。
仕事中であることも忘れて、聴き入ってしまいそうになった。
これが。この旋律が。
『ニフェ・アテス』。
一度聞いたら忘れられない、とジョーは言った。その通りだと思った。
繰り返しが三回目になったとき、ドアが細く開いた。
その隙間から、低いスキャットが流れた。たった今、ジョーが吹いた部分を追いかける格好だったが、メロディが微妙に違っていた。ハープの音が止んだ。
「正しくはこうよ」
スキャットの声はそう言うと、同じところをもう一度繰り返した。
隙間が広がって、声の主の顔が見えるようになっていた。
一瞬、シロ、と呼びかけそうになった。
月光のように輝く白銀の毛並み。澄んだ青い瞳。
表情には隠しようのない生活の苦労がにじみ出ているが、たたずまいは凛として美しい。
匂い立つような気品をまとった銀猫女性は、かつて舞台でスポットライトを浴びていた姿を彷彿とさせた。
(第八話へ続く)
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