「グレコがどうした?」
エムニは瞼を閉じて、受信した映像を見ているようだ。
「『ロスコのボール』に近づこうとしている」
「ロスコのボール? ああ、あの奇妙な球体か」
エムニは目を開けて私を見た。
「あれはブラックホールみたいなものなんだ。近づいたら吸い込まれる危険がある。だから一帯を封鎖してロボット警備員を立たせてたんだけど」
「そのロボットたちは何をしているんだ」
「あの辺はすごく入り組んでいるから、封鎖するといっても限界があるんだよ。立ち入り禁止だと知らせることはできても、わざと入ろうとする者を排除するのは難しい。ボクたちが行って説得しないと」
私の中で、フェアードマン家と交わした契約に従う義務感と、ノルアモイに対する恐怖感とが激しくせめぎあった。が、結局は理性が勝った。
「行こう。私は遅くなるが」
するとエムニは驚いたように目を見張った。
「何言ってるの、あなたのほうが速いじゃん」
「速い?????」
なんのことかわからなかった。さっき、1.72という、周囲に対する私の遅延度合いを計測したばかりではないか。
私が戸惑っていると、エムニは当然のように言った。
「滑空できるでしょ」
「……そうか!」
「飛び立つ」ためには、羽ばたくことが必要だ。しかし、今の私は通常の1.72分の1の速度でしか羽を動かすことができない。
滑空とは、空気に乗って、高いところから低いところへ滑るように飛ぶことだ。たしかにそれなら、翼の動きは関係ない。
「しかし、どうやって初速をつける」
「ボクが助走する」
「それに、私は夜目が効かない」
「ボクがあなたの目になる」
エムニは力強くうなずいた。
私たちは二階に上がり、天井裏に入って、さっき私が外した屋根瓦を今度は中から開けた。
屋根に登ると、私は風切り羽根を広げた。エムニが軽々と私を持ち上げる。
時刻はすでに深夜。家々の灯りはほとんど消えている。通りの幅は、私が翼を広げた長さとほぼ同じだ。
「ボクのナビは正確無比だよ。絶対大丈夫」
「頼んだぞ」
「行くよ。レディー、Go!」
エムニは走り出した。恐ろしいスピードでいくつかの家の屋根を渡った後、通りに飛び出す。
風に乗った!
エムニは器用に私の背中によじ登った。
左右の建物が、1.72倍の速度で後方へ流れて行く。
あっという間に路面が近づき、前方に街塔の外周を取り巻く道の柵が見えた。
ぶつかる! と思った瞬間、街塔の外へ出た。足の甲が柵の上端をこすった。
「右に旋回!」
一旦離れた街塔が、やはり1.72倍の速度で再び近づいてくる。
「0.2度下げて」
違法建築街が見えた。ごちゃごちゃと入り組んだ配管に突っ込んで行くようだ。
「このまま行って大丈夫なのか!?」
私は思わず叫んだ。
「ボクを信じて!」
エムニを乗せた私は、配管の隙間に突入した。
上下左右に配管が迫る中を突き抜け、広い空間へ出る、途端に目の前に壁が現れる。
激突する!
その時、胴に何かが巻きつき、体全体に制動がかかった。
速度は徐々に落ちていったが、壁は迫ってくる。
思わず目を瞑る。
コツン、とくちばしが壁に当たった。
そこが折り返し地点で、今度は振り子のように後ろに揺り戻された。
ゆらゆら揺れながら、シュルシュルという音とともに真上に引き上げられ、止まった。
胸に、エムニの手がある。
手首から先はワイヤーロープになっていて、胴に二重に巻きついている。
「到着ー!」
何メートルも伸ばしてから巻き取った腕で私を抱え、もう一方の手で配管にぶら下がったエムニは、元気よく宣言した。
私の全身から、どっと汗が吹き出した。
(第十五話へ続く)
(by 芳納珪)