エムニは私を抱えたまま、片腕の力だけで体を引き上げ、太い配管の上に立った。それから素早く私にトレンチコートを着せ、中折れ帽をかぶせてくれた。二つとも、探偵活動になくてはならないものだ。
見下ろすと、あの不気味な「ロスコのボール」があった。気のせいか、少し大きくなっているようだ。中心にいるロスコは、前に見たときは倒れる途中だったが、今は倒れた後のポーズになっている。
「あそこにグレコがいるよ」
エムニが指す方を見ると、ロスコのボールの向こう側の暗闇に、二つの小さな目が光っていた。
いや、二つだけではない。よく見ると、その周囲に、もっとたくさんの光る目があるのだった。
キキッ、チーチー、と、ねずみたちの話し声が聞こえた。
「ロスコの子どもたちが、あんなにたくさん?」
私はてっきり、グレコが義理の兄弟たちを連れてきたと思ったのだが、光る目は少なくとも二十匹分はありそうだ。しかも、さらに続々と集まってきている。
「ううん、あれは……十六番街の占いねずみたちだよ」
エムニは画像解析をしたらしい。
ロボット警備員が、近寄らないようにと繰り返し警告を発しているが、ねずみたちの興奮は収まる気配がない。
「警備員はどうしてねずみたちを捕まえないんだ」
「ロボットは生き物に危害を加えられないよ。万が一にもね」
それじゃ警備員の意味がないじゃないか、と言おうとしてやめた。レディMは荒事を好まないのだ。
「どうするんだ」
「ボクが話をしてみる。ここにいて」
そう言うとエムニは、ロスコのボールからの距離を一定に保つように回りこみ、ねずみの群れに近づいた。
その後のエムニとグレコの会話は通常のスピードで行われたので、私には半分も聞き取れなかったが、業を煮やしてロスコを救いに駆けつけたグレコに対し、エムニがもう少し待つようにと真摯にお願いしていることはわかった。
急に、グレコの言葉が耳に飛び込んで来た。
「ロスコは俺を助けてくれた。今度は俺がロスコを助ける番だ!」
「気持ちはすごくわかるよ。でも、お願いだからもう少し待って。必ず解決策を見つけるから」
なんだ? どうして会話が聞き取れるようになったのだ。私の時間が元に戻ったのか?
私にかけられた「ノルアモイの呪い」が解けたのか?
ノルアモイ!
その名を思い出したとたん、心臓がぎゅっと縮まった。
同時に、視界の上の方が青く光った。
「!」
見上げると――いた。
恐怖の象徴。青く燃え盛る巨大な馬。
ねずみたちがどよめいた。
「あれを見ろ!」
「ノルアモイ……本当にいたのか」
「た、助けてくれ!」
「みんな、どうしたんだ。ロボット馬が光ってるだけじゃねーか! あんなの、こけおどしだ!」
グレコは、パニックを起こし始めたねずみたちの様子に戸惑い、騒ぎを鎮めようと躍起になった。
とつぜん、私の中で、引っかかっていたことが形になった。
ノルアモイはこれを狙っていたのではないか。
十六番街のねずみたちの全てが超能力を持っているわけではない。
しかし、これだけ集まれば、隠れエスパーが何名かはいるだろう。
グレコは小さい頃の記憶をなくしているためか、ノルアモイを知らなかったが、中層階の住人なら大抵、恐怖とともにその言い伝えを覚えている。
実際にノルアモイを見て感じた恐怖を、エスパーねずみたちが無意識のうちにテレパシーで伝え合う。するとその恐怖は増幅されて……
ロスコのボールが急に大きく膨らんだ。
よける暇もなく、私はその中に飲み込まれた。
体がフワッと浮き上がり、上下の感覚がなくなった。
なんとか状況を把握しようと目を開けていたが、周囲の景色は消え、モヤモヤした雲の中にいるようだ。
恐慌におちいったねずみたちの声が、あちこちから聞こえた。
そのざわめきを割るように、凛とした声が響いた。
「赤ワシさん、わかりました!」
「えっ」
たしかにレディMの声だ。が、姿はどこにも見えない。
周囲の雲がうごめきだした。
「私を見つけて」
レディMの言葉を合図にしたように、雲の動きが激しさを増し、容赦なく吹き荒れる嵐となった。
(第十六話へ続く)
(by 芳納珪)