そんな中、決定的な事件が起きた。ラディカルな発言で知られていたDJが自宅の場所を突き止められ、暴徒に襲われたのだ。容疑者がサボテンラジオリスナーであったことが報道されると、世論は一気にサボテンラジオ撲滅論に傾いた。得体の知れないものに対して、世間はいつも冷たい。
折しも、政府が(サボテンではない)ラジオ放送局の設置を認可制で自由化し、民間放送が始まっていた。
サボテンラジオの放送局は次々になくなり、私書箱は解約され、サボテンは打ち捨てられ、ひっそりと枯れていった。
ある日私が大学の研究室に行くと、上を下への大騒ぎになっていた。ひとりが私に気づいて、大声をあげた。
つまり、こういうことだった。
教授は私の知らない間に、私のアイデアを元に小型チューナーを作り、販売会社を設立して大手メーカーと契約し、個人向け製品として販売していたのだ。国内放送を聴かない私は、そのことをまったく知らなかった。製品はそこそこ売れたらしいが、製造にかかった費用を回収しないうちに、サボテンラジオそのものがなくなってしまった。会社は破産し、教授は失踪した。そして私は、いつの間にか会社の連帯保証人にされていた。
私の窮状は、借金取りが家に押しかけたことによって両親の知るところとなったが、ありがたいことにというか申し訳ないことにというか、彼らは先祖伝来の土地を切り売りして金を作ってくれた。私は大学を中退して、必死に働いた。
金、友情、信頼。さまざまなものを失ったが、サボテンたちと、彼らのための土地だけは死守した。
あれからいろいろなことがあったが、今年、私のサボテンラジオ園は、開園五十年を迎えた。初期からいるサボテンたちは、かなりの大きさに成長した。「母さん」金鯱はどっしりとみんなを見守り、その隣に「父さん」弁慶が静かに寄り添っている。
最近、弁慶に初めて「腕」が生えてきた。サボテンの成長はとてもゆっくりなのだ。人間の方が急ぎすぎているとも言える。
レトロ趣味というのか、このごろ入園者が増えている。五十年前にここでサボテンラジオを聴いていた老人と、冷たい飲み物を手にした若者が、一緒に放送を聴いている。佇むサボテンから流れる、理解できない言葉、地上にはない音楽を。
チューニング係は息子がやってくれている。私は、大きな傘をさしかけた縁台で、五歳の孫に将棋を教えながら、のんびりと放送を楽しむ日々だ。
「ねえおじいちゃん」孫がたどたどしく話しかけた。「サボテンのラジオって、どこから放送してるの?」
「ほ?」
思いがけない質問に、声が裏返ってしまった。
そんなこと、五十年このかた考えたこともなかった。私は、子どもならではの鋭い気づきに感心し、盤から目を上げてサボテンのほうを見やった。
宇宙に向けて、ゆっくり伸び続けるサボテンたち。
私は孫に目を戻し、とてもだいじなことを教えるように言った。
「それは、きみたちが答えを見つけることだよ」
まったく、大人というのは無責任なものだ。
(by 芳納珪)
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